自分なりの結論に固執しているにもかかわらず、あたかも柔軟な思考の持ち主であるかのごとく振る舞い、自分は公平で中立な立場を保っていると主張する人、いますよね。私もそのうちのひとりです。とは言っても、大抵の場合、自分がある結論に固執しているなんて思ってもいない場合が多い。熟考し、十分に精査し、色々なアドバイスを参考にし…、しかし、それでも旨く行かないと言って悩んでいる。やがて、自分が実はつまらないことに固執していたのだと気づくのですが、気づいた時には、今まで悩んでいたのがまるで嘘のように視界が開けて見える。これ、ちょっとした救いの体験です。
私たちは、イエスを救い主と認めている点で、祭司長やファリサイ人とは立場が違っていますが、それでも、知らず知らずのうちに「自分の信仰」という枠に囚われてしまう。自分の考えた枠に無限の神を閉じ込めようとして、旨く行かずに苦しみ喘ぐ。ホンのちょっとした気づきがあれば解放されるのに、分かっていてもまた繰り返してしまう。
気づきは救いです。何でも、神の目で世界を眺める習慣が気づきを促すのだとか。いや、それも難しそうですが、ここはひとつ、つべこべ言わずにやってみましょうか。
eno
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