福音はマタイから「求めなさい」と言う段落です。
ルカ福音書における並行箇所は「主の祈り」に始まる文脈に在り、「求めなさい」「探しなさい」「門を叩きなさい」の三つの動詞は神に向かって真剣に祈願すべき事を強く勧める言葉となっています。他方マタイでは祈りの文脈から離れていますが、「求める者」は必ず聞き届けられると言う二重の約束はこの「求め」が祈りで在る事を示しています。求めなさいに対する応えは、直訳すれば受動態の「与えられるであろう」と言う未来時制ですが、此れは主語が神で在る事を間接的に示して居り、この応えも「求める」が祈りで在る事に於いて成り立ちます。
しかし何を祈り求めるのか、7節には目的語が有りません。問題はこの段落の展開と山上の説教全体から理解されます。9-11節は日常的な親子の情景を例に出して、どんな親でも子には善い物を与え様とするのであるから、まして「父」である神は善い物を与える筈だと述べます。其れに続いてマタイは所謂黄金律:愛の教えを提示し、此れこそが預言者と律法:すなわち旧約聖書:神の言葉:神の御旨で在ると言います。この文脈展開に於いて「求める」対象は愛において新しく成立する人と人との関係で在り、神と人との関係です。
イエスは自らの使命を「律法や預言者」を破棄するのでなく完成するのだと言い、信仰者は律法学者やファリサイ派の者以上に正しい生を送らねば成らないと教えます。それは律法学者やファリサイ派が施しているような厄介な律法解釈以上に遵守せよと言うのでなく、徹底的な愛の要求、即ち黄金律の実行に他なりません。山上の説教が5:17-20と7:12で囲まれているのはその為であり、愛に於いて律法の諸要求は克服され、かつ完成されます。「殺すな」の律法は腹を立てることさえ否定する徹底的な隣人の尊重において真に守られる、そうした人間関係の成立を「求めなさい」と勧めます。
飯田徹
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