福音書の中でイエスが涙を流される場面が二つあります。一つはヨハネ福音書の11章で、親しかったラザロの死に際して、イエスは涙を流します。ラザロの死を悼んで、その姉妹マリアとそこにいた人々が泣いているのを見て、イエスも心を動かされたと記されています。もう一つは今日の福音書の個所です。イエスは公生活の間、神の国の到来を告げ知らせ、福音宣教に邁進してきました。しかし、イエスの真意は人々に伝わらす、領主ヘロデ、祭司、律法学者たちの反感が高まっていきます。イエスは彼らとの決定的な対決を覚悟してエルサレムに向かいます。イエスはエルサレム全体が望まれる丘の上で、人々の無理解、また、将来起こるであろうエルサレムの滅亡を想い、涙を流されます。
イエスは父なる神の子であり、全能の神と等しい者であるにもかかわらず、涙を流されるというのは、何となくしっくりこないと思う人もいるのではないでしょうか。天地万物を司る神のイメージとしては、もっと理知的で、人間のような感情に左右されない峻厳な存在の姿を思い描く人も多いと思います。しかし福音書では、審判者であると同時に、人を愛する神、人をゆるす神の姿が表われています。完全な存在でありながら、私たちと同じような心をもった神であるからこそ、私たちは安心して神に祈り、神にすべてを委ねることができるのではないでしょうか。今日お祝いしている聖女セシリアの取り次ぎによって、私たちがますます神の愛に心を開くことができるように祈りましょう。
鈴木英史
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