今日の箇所は「決別説教」の終盤にあたります。これまでイエスはイエスのことを信じることで、父である神と私たち人間がつながっていることを弟子たちに語りました。時にはつながるということばが愛するということばに変わって、神を愛すること、神に愛されること、人間が互いに愛し合うことが語られていました。
今日は願うということばで神と人間の関係が述べられています。「願いなさい」というイエスのことばには「イエスを信じること、信頼すること」が含まれています。「今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった」というイエスのことばは「イエスを信じていない」という弟子たちの状況を表しています。イエスを信じて何かを願うならば、父である神は与えて下さいます。このことは神が人間を愛しておられることを明らかにしているとイエスは語られます。
「決別説教」でイエスは信じるようにと繰り返し教えられ、終わりには「勇気を出しなさい」と信じることで受けなければならない苦難を乗り越えるように励ましておられます。私たちが本当に信じることのできる人間になれるようにイエスがいつも支えてくれていることを思い出して、日々起こる困難と向き合うようにしたいと思います。
T.K
「願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」 これは願い事の尽きない私たちにとって大きな希望を与えるメッセージです。
ある人は自分の願いが叶うように、長い時間を掛けて祈ることでしょう。またある人は犠牲も捧げることもあるでしょう。そして「これだけ祈ったのだから、これだけ犠牲を捧げたから、自分の願いは聞き入れられなければいけない!」と考えるかもしれません。ある意味これは見方によれば、神様に対する脅迫あるいは脅しとも言えるものかもしれません。
イエス様は「あなた方がわたしの名によって何かを願うならば、父はお与えになる。」と言われています。ここに一つの大事なポイントがあります。「わたしの名によって」とはどういうことでしょうか。それはイエス様が全てを御父に委ねたように、委ねるということでしょう。イエスもゲッセマニの園で御父に願われました。「どうかこの杯を取り除いてください。でもわたしの思うままではなく、あなたのみ心のままに・・・」と。
私たちが神様に願うとき、このイエス様の姿勢を忘れないようにしましょう。自分の思い通りになることを望む以上に、最終的には神様のお望みが果たされること、そうなるように私たちがすべてを委ねられるよう、「わたしは主のはしため、お言葉通りにこの身になりますように・・・」と祈られたマリア様の取次ぎを求めて祈りましょう。
mickey sdb
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