今日のみ言葉


今日の『み言葉』(聖書朗読箇所)をよく噛んで、ゆっくり味わいながら頂くように致しましょう。
『み言葉』はリンク先「今週の聖書朗読」で読むことが出来ます。
どうぞご利用下さい。

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2013/03/28  聖木曜日・主の晩餐の夕べのミサ 出エジプト 12/1-8,11-14 1コリント 11/23-26 ヨハネ 13/1-15
 
 福音はヨハネから「弟子の足を洗う」です。ヨハネ福音書は学者によって相違は在りますが、1:1−1:51は第1部「プロローグ」、2:1−12:50は第2部「徴に依る活動」、13:1−20:29は第3部「最後の徴」、21:1−25は第4部「エピローグ」と言うように分けられ、朗読箇所は第3部「最後の徴」の冒頭でした。第3部「最後の徴」は、最後の徴としての十字架と復活を取り扱っています。
 
 ヨハネ福音書に於いて「徴:セーメイオン」と言う言葉は、特にイエスが行った奇跡に限定して用いられていますが、イエスの受難と十字架上の死と復活は最大最高の徴として、提示されています。ヨハネ福音書においては十字架と復活が等しく、父の所へ帰還する栄光の時として位置づけられており、また十字架は神の子イエスが挙げられる、高挙の時でも在り、十字架と復活を最後の徴で在るとヨハネは考えています。朗読箇所で、イエスはこの世を去って父の下に帰還する時が来た事を知ります。イエスの時とは、栄光の時、神が神である事が現される時で、既にイエスの徴によって指し示されていた事で、高挙、或いは、神である御父の元への帰還と言う意味で、十字架と復活が優れて栄光の時とされます。この時にあたって、イエスは弟子達の足を洗うと言う、奴隷の役目を引き受ける行為を示します。洗足の行為は、元来は互いに仕えあうべき事を、弟子達に促す為に、イエスが模範を示した単純な行為だったと思われますが、ヨハネ福音書記者は、イエスの十字架の姿を洗足の儀式に重ね合わせています。そう言った背景のもと、ヨハネは始めから、イエスが御自分に属する者達を愛された事を読者に印象付けます。その愛は、歴史的なイエスの弟子集団に限定されるものではなく、イエスを受け入れ、イエスの名を信じた者達全てを想定しています。
 
 「この上なく愛し抜かれた」の「この上なく」は「極限まで」と言う意味と、時間的に「最後まで」と言う二つの意味を持ち合わせています。ヨハネは質的にも時間的にも極限に達するイエスの愛を提示して、洗足の出来事を其処に位置づけています。十字架に依って特徴づけられるイエスの時とは、神の元への帰還の時で、それは自分の民に対する神の愛の啓示で在り、洗足はその先取りです。イエスが自分の時を知る事と、愛の模範を示した洗足が関連付けられているのはその為です。イエスは弟子達の足を順に洗います、ペトロは自分の番が来ると当然とも言える疑問を呈します。そこでイエスとペトロとの問答が生じますが、対話はヨハネ福音書の至る所で見られる、対話を通しての真理の開示であり、ヨハネ独特の手法です。イエスは、洗足の意味が「後で解る」と言いますが、此れは12節以下のイエスの説明と言うよりも、「真理をことごとく悟らせる」解釈者である聖霊の到来の時を示しています。洗足を洗礼と結びつける解釈も在りますが、此処では寧ろ、神の子の奴隷的な奉仕、愛の奉仕としての洗足が指し示す十字架が、神の啓示である事を、受け入れるか如何かを問うているので在り、受け入れた者は、既に全身が清く永遠の命に生きる者で在り、イエスが弟子達の足を洗うのはその徴です。
 
飯田徹

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