「完全に分からない、全部悟れないありがたさ」
神様の加入によってしかありえない自分の身に起こる素晴らしいこと、奥義のような出来事に直面すると理解とか理性で分析して「判る」ことに励むことは一切必要も無ければ、それを試みるのもクエスチョンマークではないかと思う。
永遠の無限の知恵である神様のされることは限界ある私達の能力に勝るものだとだれでも認めています。福音書を見ますと羊飼いたちも、博士たちも、ヘロデも、ヨセフも、マリアも、皆、みんな・・そのうちにイエスご自身さえも「神のなさること」を思い巡らしていくしか残らない。受肉のときからイエスに関係あるすべてをわかることが出来たのは誰一人もいない。神学者さえ何世紀もかかって今日祝っているその幼子のことをほとんど説明できないでいる・・2000年後の現在でも・・・
私たちにおいても行なわれている神様のみ業も同様です。私が預かっている司祭職、頂いている信仰の恵、選ばれて宣言した誓願の賜、生きることさえの不思議さをわかる人がいるのでしょうか?・・・
マリアは何でも「思い巡らして」生き、思い巡らしながら天に上げられた。その素晴らしい姿勢を保てたのはいつも「言葉」の母親だからと思えませんか。「聴く」態度が自分の姿勢です。どのほかのことより先に私たちが求められているのは聞く姿勢と聴いたことを分かち合う姿勢です・・「イスラエル(神に選ばれた人々)よ、聴け!」とどこでも先にある。聴いて、見て・・思い巡らしながら生きる。いつまでも聴いて生きる・・・み言葉を!
O.P
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