私たちは死ななければ、新しい生命を生きることはできない。「神の子が罪のために死んだ」のはそのことを表すものです。おんひとり子もまた例外ではなかったのです。しかし、決定的に違うことがひとつだけあります。それは御父の徹底した愛の故に、私たちの罪のために、罪を担って死んでくださったということです。他の誰でもない、この私のために死んでくださったということです。私がどんな人間であろうとも、どんな罪を犯した人間であろうとも、私のためにいのちをかけてくださった方がいる。
私たちは自分の罪を振り返らないわけにはいきません。自分の小ささを見ないわけにはいきません。しかし、私は自分の罪を自分ひとりでは決して償うことはできません。弱さを自分の力だけでは決して克服することはできません。償えるとしたら、克服できるとしたら、愛だけだと思うのです。私のすべてを、何もかも引き受けてくださった愛だけでしょう。
今日はそのことを黙想し、味わう日です。私を徹底的に愛しぬいてくださった、下さっている方がおひとりだけおられる。そして、私だけではなく、私たちすべてを愛しておられる方がいる。その愛において私たちはすべてつながっていることを思い起こしたいと思います。
最後にキリスト者の詩人、八木重吉が残したひとつの詩を紹介したいと思います。
「十字架は悔いへのくさびである
罪ふかくして悔いを全うし得ぬ者へのめぐみである
何人(なにびと)でも仰ぎさえすれば救われるという約束である
基督を見し者が信じた福音である」
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