『預言者は自分の故郷では敬われない』と分かっていながら、イエスは敢えて故郷ガリラヤに行きます。「う〜ん…何で?」と問いかけたくなりますね。聖書の原文によりますと44節には理由を表す接続詞『ガル』と言う言葉が挿入されているそうです。この言葉を踏まえると『尊ばれないと分かっていたので行った』というニュアンスになるようです。“敬われないからこそ、そこに神さまの愛を伝えないではいられない”と言う、イエスの宣教への心意気!はたまたイエスの姿を通して示される神の愛は、どこに優先的に表されようとしているのかを考えさせられます。ところが、ガリラヤに着くと……人々から大歓迎ムード!!!何だか拍子抜けです…。「一体、彼らに何があったの?」と思いますよね。
45節の冒頭に「そういうわけで」と言う帰結を表わす副詞『ウーン』と言う言葉が挿入されているそうで、以下の理由で人々はイエスを歓迎したようです。それはエルサレムでイエスが行なったしるしを“見て”心酔したと言う浅はかな歓待ムードだった訳です。
それに対するかのように、福音はガリラヤのカナで、イエスのもとにカファルナウムから、はるばる約33kmの道のりをかけてやって来た王の役人を登場させます。でも彼もイエスから尋ねられています。「(あなたも)しるしや不思議なわざを見なければ決して信じない」くちではないの?と……。それに対して、王の役人はイエスに「おいで下さい」と要請はしますけれども、イエスが言われた言葉をまるごと“信じて”帰っていきます。
“見て”信じようとする人…、神の言葉そのものを心底“信じて”いこうとする人…。見えるものにしか、信頼を置かない現代の風潮にあって、イエスがトマスに言われた「見ないで信じる人々は幸い」ということや、百人隊長がイエスに「お言葉だけで十分です」という箇所とリンクさせて、私たちも真に“信じる者”となっていきたいですね。
FR.NAO
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