英国に留学した人に聞いたことがあります。 たまたま下宿した家庭が熱心なユダヤ教徒の家だったそうです。英国とドイツは料理が美味しくないことで有名ですが、厨房の仕事さえも労働とみなして禁じていたその家庭の安息日の食事は悲惨だったとか。
今日の福音にでてくる会堂長の安息日理解も似たようなもの。安息日は何歩以上歩いてはいけない、厨房の仕事は労働にあたるなどの禁止規定で頭の中はいっぱいだったのでしょう。
その会堂長の言動に対して、イエスはいいます。「偽善者たちよ。18年間もサタンに縛られていた、アブラハムの娘たるこの女を、安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったか」。ある聖書学者は、この<安息日であっても>という言葉は<安息日においてこそ>と訳すことができるといいます。「安息日においてこそ、その束縛から解いてやるべきではなかったか」。この<べき>というのは、道徳律がそのように強いるという意味ではありません。原文はむしろ、「必ずそうなるはず」という意味だそうです。
主イエスはおかしいと思っておられた。当然あるべきことが起こっていないことをいぶかっておられた。むしろ安息日だからこそ、この女性の長年の痛みや辛さが顧みられてしかるべきではなかったかと。
安息日だから、その日の料理にふだんよりも心がこもっていたら、ユダヤ教の家庭でのホームステイも印象が異なっていたかもしれません。
M.Joseph
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