今日の福音の話には神への信頼が根底にあります。迫害という事情を考えると、イエスの仲間であると言い表すことは危険なことでした。それでもあえてそのことを言い表すことは、神への信頼があってのことです。連れて行かれたときに何を言えばいいのか心配する必要がないというのは、神への信頼があればそれでいいという考えからです。
聖霊を冒涜するというのは、迫害を前にして背教する事だと説明されていますが、これは神への信頼を捨ててしまうことともいえます。イエスの仲間であるということは、イエスが誰なのかを知っていることで、それでもなお信頼しようとしない心の頑なさが問題なのかもしれません。知っていて信頼しないほうが、知らないで心を寄せないよりももっと悪いということにもなるでしょう。イエスは神への徹底した信頼というものを期待しているのかもしれません。私たちの心からの望みはいったい何かを考えるとき、私たちはこのイエスの期待に答える最大限の努力が必要なのでしょう。
T.K
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