イエス様から受難の予告を聞かされた弟子たちは、「怖くてその言葉について尋ねられなかった。」とあります。理解出来なかったこと以上に、真実を知る恐ろしさを感じていたからでしょう。
理解できない「何か」、もしくは理解したい「何か」があると、人は心に未知なる物・事に対して期待と不安を抱くものです。またそれが自分にとって受け入れがたいものだと察する時には恐れを感じ、自然と拒否しようと目をそらすものです。「真実を恐れる必要はない」はずなのですが、頭と心は必ずしも同じ方向へと進んでいくものではありません。自分を偽るようになりますが、これが人の正直な反応でもあるわけです。しかし私たちは嘘、偽りが真実から目を背けさせ、真実の光を避けて闇の中へと人を誘い、迷いと混乱のそれこそ迷宮へと導いていくことを経験で知っています。いつも真実から目をさらさず、真実を受け止め、受け入れる勇気が欲しいものです。
「受難の予告」がありましたが、「復活の予告」もあるのです。(マルコ福音9:30-32参照)勇気を持って真実を受け取り、また真実を語るとき、不安、心配、恐れもありますが、神様の祝福もあるのです。
mickey sdb
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