この箇所では、ヘロデ王の耳に入ってきた、イエスの噂について語られています。ある人は、「イエスは洗礼者ヨハネの生き返り」だと考え、またある人は、「エリヤが現れたのだ」と考え、そしてまたある人は、「昔の預言者の一人だ」と考えておりました。これを見るときに、当時の人々のイエスに対する見方というのが、非常に乏しく、偏っていたものであったことが分かります。けれども現代の一般の人々の考えでも、この程度の答えしか出てこないように思います。しかしキリスト者である私たちは、そうであってはいけないでしょう。
イエスという方の本質を「あの人がこう言っているから」とか「みんながそう思っているから」といったように人の言うことや噂だけで決めつけるのは危険です。そのような見方では、イエスという方はただ特別な任務をもって、神から遣わされた一人の人間としか捉えることができないからです。その反対にペトロのように、自分の体験や霊的な目でイエスを見続けるならば、自分にとって、イエスを救い主として信じ、受け止めることができるのではないでしょうか。
つまり自分にとってイエスという方がどのような方なのか、ということを私たちも弟子たちのように追求し続けていかなければならないということです。
NICCHI
|