舞台となっている村はベトサイダです。マタイによる福音書の中ではイエスが、コラジンと並び称して「不幸だ」と言って叱り付けている町。奇跡が行われたのに悔い改めなかったためです。では、奇跡というものは何のために行われるのか。一つには、人を回心へと導くためのもの、と言うことができます。ですから、見ても信じない人に対して奇跡は行われません。一方、トマスのように「見るまでは信じない、即ち見れば信じる」という人のためにイエスは、惜しみなく、徹底的に見せてくださいます。
盲人は、はっきりと見えるようになった目でイエスを見つめました。きっとイエスが何者であるかを見てしまったことでしょう。悔い改めない町に戻って行って、再び目が曇ってしまうことを嫌ったのか。「見ても信じない」と言う罪を重ねないようにとの配慮からか。あるいは、耳が聞こえず舌の回らない人を癒したとき(マルコ7,31〜37)とおなじ理由なのか。
いずれにしても、今日の私たちに求められる姿勢はひとつです。善意の村人たちの願いを思い起こしましょう。もちろん盲人の目が開くことを期待していたでしょうが、何よりもイエスに「触れていただきたい」と願っています。それは、この人に触れさえすればというあの女性の信仰と一緒です。既に信じているのです。
Eno
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