今日の福音のエピソードの中で、イエスは「どんな罪もすべて赦されるが、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」ときわめて厳しい言葉を残されている。
冒涜と訳されたギリシア語は、宗教的には「けがす」という意味で、ほとんど「神をけがす」ことを指している。イエスは「聖霊をけがす罪」だけは赦されないと言われた。それでは「聖霊を汚す赦されざる罪」とは何だろう。一言で言えば「頑なに改心を拒む」ことである。拒むにはいろいろ訳があるだろう。ある人は絶望し、ある人は思い上がって神の救いの手を拒むかもしれない。人間の恐ろしさは神の救いの手を拒む自由があるということである。
ここでシスチーナ礼拝堂のミケランジェロの最後の審判の絵を思い起こしたい。向かって左下に地獄に落ちていく人々が描かれているが、そこに筋骨逞しい天使が落ちていく人間を鎖で引き上げている構図がある。(ちなみに天使に羽など生えていない。また世の中全体が男も長髪の時代に、短髪の格闘技に出そうな青年である。)その天使の手にある鎖をよく見るとそれは、ロザリオである。人間という者は、所詮、罪の重荷で落ちていく、それを神の恵みが引っ張り上げていく、ミケランジェロの神学が見事に描かれている。
私たちは全能の神を信じているという。この神の全能さを、私たちはどこに見ているのだろう。天地創造の話をイメージする人は多いだろう。しかし神の全能は、自由であるがゆえに罪深く、下へ下へと落ちていく人間を、がっちり引き上げてくださる恵みのうちに、むしろ現わされているのである。赦されない罪の話に不安を感じる人は、救いの恵みに現われる神の全能を思い起して欲しい。
村上康助sdb
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