「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」
ある時、小学生の子どもたちから聞かれた。「どうして、神父してのる?」と。それに対して「うん、人一倍、罪深い人間だと思っているからだよ」と答えた。そうすると、「ふ〜ん」と口にして、子どもたちは去って行った。
さて、今日のマルコ福音の箇所では収税所に座っているレビがイエスに呼ばれる。「わたしに従いなさい」と。ご存知のように徴税人は、収税所で通行と荷物に関して税を徴収していたが、それには下役が使われた。レビもそのような下役の一人だったと思われる。また通行人からの徴税額は定められていないことが多く、不当に高い税を取り立てることも出来た。さらに彼らは異教徒とも頻繁に接触したのでユダヤ人からは祭儀的には不浄な者と見做された。こうして彼らは軽蔑され、罪人扱いされたのだ。
ところでイエスは何故レビを呼んだのだろうか。イエスの答えはこうである。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」この答えはあまりにも簡潔で明快であった。イエスの弟子たちを困らせようと思っていたファリサイ派の律法学者の狼狽振りを想像するには難しくないだろう。
ところで、私(読者)はどうだろうか。
あなたがイエスの立場だったらレビを呼んだだろうか?
レビを呼ばなかったとすれば何故だろうか?
私の周りにいる病人とは誰か?
私はその病人に対してどうしてきただろうか?
イエスが呼んだのは収税所に座っていたレビである。ある意味でレビは罪人であった。しかし、レビはイエスに従った。イエスに従ったレビは、罪人の道を歩み続けることなくそれを絶ち、福音に生きる者となった。
イエスは誰でも招いておられる。ただし、人がその招きに敏感であるかそうでないかがその招きを活かすか無駄にするかの境目である。
先に述べた子どもたちへの答え、「うん、・・・」という言葉の裏には主イエスの招きに与ること無しには自分の人生はあり得ないという信仰の表現である。
「主イエスよ、罪人の私をあわれんでください。」
濱口秀昭sdb
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