今日のみ言葉

今日の『み言葉』(聖書朗読箇所)をよく噛んで、
ゆっくり味わいながら頂くように致しましょう。
『み言葉』はリンク先「今週の聖書朗読」で読むことが出来ます。
どうぞご利用下さい。
2012/10/06    年間第26土曜日 ヨブ 42/1-3,5-6,12-17 ルカ 10/17-24
 
 福音はルカから「72人、帰って来る」と、「喜びに溢れる――父子の啓示」です。
 
 前の段落での弟子達の報告は、マルコ9:38「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました」、即ちルカ9:49を編集して、ルカ10:20「悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されている事を喜びなさい」の影響のもとに此処に適用させたもので、弟子達の宣教の成果を「悪霊の屈服」に要約しています。此れはルカ10:9における病人の癒しに依って具体的可視的に現された神の国の到来の宣教です。しかし此処で復活後の弟子達の宣教の成功が、復活の主に帰せられて居ます。弟子達は此処で「主よ:キュリエ」と呼び、「主:キュリオス」の名によって悪霊は屈服した、と。此れはまさに初代教会に於けるキリストの復活思想です。「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた」は、イエス自身の先見的神秘体験と思われます、と言うのは、サタンが天から落ちるのは、終末におけるミカエルとの最期の戦いの筈だからです。「蛇」と「蠍」の対句は、旧約では申命記8:15にのみ見られ、其処ではイスラエルの民を荒れ野の道で、神の救いの表現として蛇や蠍から守ったと言う伝承です。ユダヤ教では蛇と蠍を悪霊とし、敵として居り、神の救いや守りを「蛇と蠍」からの守りと表現を用います。また、蛇と蠍を加害者と呼び、神の保護の下では、蛇や蠍などの加害者は無害になり、害を加える事の出来ないものとされていました。言い換えますと、神の保護のもとに在る宣教者達は、宣教が成功して当たり前で、その事を喜ぶより、「あなたがたの名が天に書き記されている」救いが約束されている事を喜べと。
 
 後の段落ですが、ルカ福音書における中心の意味を見ますと、それは22節「父の他に、子がどういう者であるかを知っている者は無く、父が如何言う方で在るかを知る者は、子と、子が示そうと思う者の他には、誰もいません」です。マタイの並行箇所では、父と子、子と父の相互認識でした。しかし、ルカは其れを問題にせず、「子」、即ち、神たる父が約束し、イスラエルが期待するメシアたる「子」は一体誰なのかを、父だけが知ると言います。この問い、「そう言う子は一体誰か」への答えは「それは、私ナザレのイエスで在る」と言うものになります。言い換えますと、ナザレのイエスが一体何者なのかを天の父しか知らないと言います。其れを知る者は父が示そうと選んだ弟子達で在り、弟子達は「子が誰で在るか」を知っているから幸いだと言います。かって人々は洗礼者ヨハネを「彼がメシアではないか」と思いました。ヨハネ自身はイエスに使者を遣わして「イエスはメシアか、または他の誰かを待つべきか」と尋ねました。ルカ福音書において神から遣わされたメシアたる子は誰なのかと言う問いが繰り返されます。次いで、「父が誰か」を知る者は子と子が示そうと思う者の他誰もいないと言います。即ち、先の問いを受けて、「この子は誰なのか」と言う問いです。此れは「神が誰か」と言う問いで無く、「神が父で在る事を誰も知らない」と言うのでも無く、「イエスの父が神で在る事を誰も知らない」と言う意味です。「父が誰か」と言うのは、「ナザレのイエスの本当の父は誰か」と言う事で在り、ナザレの人々は「彼はヨセフの子ではないか」と言ってイエスの本当の父を見誤りました。「イエスの本当の父は神で在る」と言うのが答えと成ります。
 
飯田徹

前のページ 目次 次のページ
ホーム  今日のみ言葉  週日の福音朗読  主日の福音朗読(A年)  主日の福音朗読(B年)  祝祭日等 固有の福音朗読  神の言葉  リンク 

Last updated: 2012/11/30

ご意見・ご感想はこちらまで