イエスの「里帰り」に見える場面は多くの私たちも体験したことがある雰囲気に似ている。多くの「どうして?」が起こる。
小さいときから知られすぎている私たちについてだとある程度までに「無理もない」反応ですが、イエスの場合は全然違う。神はイエスと言う名をとって完ぺきにまことの人間になられ、自分のために「神の地位」を一切利用せずに人々の当たり前の生活に含まれている限界や制限、無名、空しさと無力さ、当時のその地域にあったきつい苦労などの体験をされていた。そのことをこの箇所に見事に見える。神でありながら「たったの人間」にしか見えないイエスの魅力を私に感じさせる箇所です。しかし、その時までどうだっただろうと関係なく、里帰りの際、皆の耳に入っていた「しるし」や自分たちも直接に聞かせられていた「メッセージ」の力を受け入れず、また彼の行なっている奇跡には「神様の指」があったことを他の多くの人々と同様に受け入れなかったのはイエスにももちろんそして私たちにも悲しいばかりです。
今自分自身に訊くが、友人・同級生・知りすぎている人間からの「良い」ことば・アドバイス・提案・勧め・戒めなどが聞かせられたときに、その「内容」を見ずに、当時のナザレの人々とまったく同じちっぽけな理由だけで・・受け入れないことが多いのでは・・・
イエス様のその辛い体験を友人や側にいる人にもさせていることがあることを実感します・・・
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