今日の福音は、一つの喩え話の間に、挟まれた形に置かれています。それは「種を蒔く農夫」の譬えです。これはなんの脈絡もなく、ここに置かれている訳ではありません。普通、人が喩え話を用いて話すのは、話の理解を容易にする為です。しかし「イザヤ6:9〜10」を引用して喩えを用いて語る理由を述べる今日の福音では、イエスの喩えを聞く人々が、逆に「見ても見ず、聞いても聞かず、理解できない」ようにする為だとつまり、特別な説明がなければ理解し難いものとする喩えである事を前提としているようです。なぜ、そのような事をするのでしょうか?
ヨアヒム=エレミアスという学者によると、「たとえ」の元にあるアラム語の「マトラー」と言う言葉には、「たとえ」と同時に「謎」と言う意味もあるそうで、福音箇所の11〜15節のイエスの言葉は本来、イエスの「たとえ話」そのものについてではなく、「イエスの教え全体が、受け入れない人にとっては謎になってしまう」事を示す言葉のようです。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていない」。ここで「秘密」と訳されている言葉も、原文のギリシャ語によると、musth/rion(ミステリオン)と言う言葉だそうで、英語のmysteryです。その意味は「言葉では伝えられない事柄」、まさに「謎」です。但し「天の国の秘密」とは、要するに“神の救い”を表しています。その神の救いはイエスによって実現しました。それを私たちは聖書を通して21世紀の現在、様々な自分自身の歩みの中で見て、体験しているでしょう。
また朗読を通して神のことばを聞き、黙想しながら、それを味わっているはずです。それだけに、イエスの御言葉を真剣に受け留めていかなければ、私たちの信仰やキリスト者としての人生の歩みそのものすらが「謎・秘密」のままで終わりかねないのです。
「種を蒔く農夫のたとえ話」と「たとえ話の解説」に挟まれて、今日の福音が置かれている理由も、そのままで終わらないようにと私たちを促すためです。
FR.NAO
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