イエス様が生きた時代、ユダヤ人の間にはメシア(「油注がれた者」転じて救い主を意味する)を待望する思潮がありました。実際のところ、今でもあります。イエス様の弟子たちはイエス様こそが約束されたメシアであると告げ知らせ、私たちもそう信じているわけですが、ユダヤ人は今もなおメシアを待ち続けています。
ユダヤ人は待望するメシアを「ダビデの子」という称号で呼んでいましたが、彼はダビデの子孫より出ると預言者を通して約束されていましたので、メシアが「ダビデの子」と呼ばれて問題はないはずです。一体何が問題なのでしょう?
ダビデは10世紀頃活躍したといわれる、イスラエル王国に最大の繁栄をもたらした王です。イスラエル民族がパレスチナに定住したあと、周りのペリシテ人やアンモン人、モアブ人などの民族を力で従え、領土を拡大しました。向かうところ敵なしで、ダビデ王を頭とするイスラエル民族は神に祝福されて繁栄の一途をたどると人々は考えました。ローマ帝国に支配されていたイエス様の時代の人々は、ダビデの子であるメシアにこのような姿を重ね、期待していたのでしょう。つまり、ローマ帝国の支配からイスラエル民族の独立・繁栄を実現してくれる人物です。
しかし、ダビデ王は神のみ心に適う忠実な僕(しもべ)としても描かれています。ダビデの忠実さゆえに神は彼とその民に繁栄をもたらしたのであって、事実、心が神から離れたとき神の祝福も民から離れます。イエスが「ダビデの子」を問題にする背景にはこのようなことがあるのではないでしょうか。メシアがメシアたる理由は何なのかを勘違いするなということです。それは神への忠実、従順です。「キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。そして完全な者となられたので、ご自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となった」(ヘブライ5:8-9)とあるとおりです。イエスの従順はダビデのそれをしのぎます。
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