こんな嘆きが聞こえてきそうです。「天の国の為・イエス様の為に全てを『捨てる・奉げる』と言ったってそんなの簡単ではありませんよ神父様!」私もそう思います!!それが人間の弱さ・儚さなのですよね。しかし私は弱いから私は信仰が薄いからと、自分自身で自分にそのような「失格」の烙印を押してはいけません。「弱さと情けなさ」を持ったままの自分で神様を見つめていった時に、昨日の福音の言葉「人間に出来る事ではないが、神には出来る。神は何でも出来るからだ」という意味を理解できるのでしょう。つまり私自身が弱さと貧しさという空の手になった時、神様が空になったあなたの掌に最高の何かを与えて下さるのです。だからパウロも「私は弱い時にこそ強い」と。
昨日の福音に登場した金持ちの青年は残念ながら自分で自分に「失格」の烙印を押してしまい、悲しんで立ち去りました。もし彼が、富に対する執着を捨てられない自分の弱さをイエスの前で正直に告白し、主イエスに助けを求めたとしたら???きっと新しい何かが開かれていたのかもしれません。今日の福音の中でペトロは「この通り、私たちは何もかも捨ててあなたに従ってまいりました」と大言壮語していますが、ペトロはイエスの十字架までは従う事が出来ませんでしたよね。ペトロがイエスの心を悟ったのは三度イエスを否定し、弟子としての自分自身の弱さ・情けなさを知って大泣きした時に、神様から大きな何かを戴いたのです。
私たちも「捨てきれない・奉げきれない」という自分のありのままの弱さと儚さを知った時に、真の意味で主に従うことが出来るのかもしれません。
FR.ナオ
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