ミサに与るたび、主の祈りを唱えたあとで「わたしは平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える」というイエス様の言葉をわたしたちは耳にします。しかし、それに続く言葉はミサでは唱えられません。「わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない」というものです。わたしの中で、このひと言は第一朗読の一節と重なって聞こえます。バルナバとパウロが人々を励ます言葉です。「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない。」
イエス様の言う「平和」は救いと関わりのあるものです。つまり救いは、神を知らない人たちが思うような方法ではやって来ないということなのでしょう。そこには、キリストの十字架に示された苦しみが不可避なものとしてあります。世の支配者がやってくるとイエス様は言いますが、世の支配者は、この十字架が絶望のしるしであり神はわたしたちを救うのではなく見捨てたのだとわたしたちに信じ込ませようとします。その力を侮ってはいけませんね。多くの苦しみを前にして希望を失う人々の話を聞いたことがあるでしょう。経験したことがあるかもしれません。でも、絶望しないようにしましょう。イエス様は言います。「心を騒がせるな」「おそれるな」「世の支配者はわたしをどうすることもできない」と。父がお命じになった通りに、イエス様を通して救いはもたらされます。世のやり方ではなく、父が用意したやり方にこそ信頼すること、そしてその信頼は裏切られることがないということをイエス様の復活のうちに確認する。復活節とはそのようなときだと思います。
DAISUKE
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