イエス・キリストを知ることは、父である神を知ることです。わたしたちがある人のことを「知っている」というとき、何をもって「知っている」と言うことができるのでしょうか。今ではメールやツイッターを通して相手の本当の名前さえ知らないのに、相手のことを知ったつもりになっています。電話を通して相手と話すことを“面と向かって”と表現する若者もいます。
わたしたちがイエス・キリストを知るというとき、イエス・キリストという方の何をどのように知ったら、彼を本当に知っていることになるのでしょうか。もちろんヨハネ福音記者がいう「知る」は、単に知識として知っていることを表してはいません。復活されたイエス・キリストが、いつもわたしとともにいて、わたしを守り、導いてくださることを体験すること。そのことを秘跡のなかで、人々との関わりのなかで、祈りのなかで体験することが、イエス・キリストを知ることでになるのではないでしょうか。
kita
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