教会が舟に例えられることは良く知られています。今日の福音にも舟が出てきますので、それを教会のたとえと考えて読み直して見ましょう。
まず、ペトロが「漁に出よう」と言うと、「我々も一緒に行く」と他の弟子たちが申し出ます。これは、リーダーの下に皆が一致協力する姿を現しており、素晴らしいことです。しかし、それでも「何も収獲がなかった」。イエスが不在だったから。イエス不在の教会では(あえてそれを教会と呼ぶとして)、皆がどんなに一致協力して頑張って見ても何も実りがありません。だから、イエスが現れ「何か食べるものがあるか」と問われても、残念ながら何も無い。イエス無くして「働き人を力づけるもの」は手に入らないのです。
逆に考えれば、もし働く人が疲れ切ってしまうとしたら、それはもはや「イエスの教会」では有り得ませんし、また、何の実りももたらされないと感じるならば、イエスが忘れ去られているからに他なりません。礎は礎。拠り所は拠り所。命綱は命綱なのです。
eno
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