今日の福音を味わっていると、ユダによる裏切り行為の神秘性について考えさせられます。
裏切り行為は、決してあってはならないもの。しかしイエス様の十字架の死と復活が、神様のみ旨のうちに成就するために、ユダの裏切りはなくてはならないものでもあったわけです。ユダが裏切らなければ、おそらくイエス様の死と復活もシナリオ通りにはならなかったでしょう。
ユダは本来、誰も引き受けたくはない役割を知らず知らず担ったわけで、その意味でユダも神様のみ旨を果たしていると言えるでしょう。しかし教会では、ユダは聖徒として数えられていない立場であり、どう理解すればいいのかわからないところに神秘性があります。
「主よ、まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた様子から、裏切る可能性は他の弟子たちにもあったと考えられます。少なくとも、裏切らないという自信はなかったでしょう。私たちにも大いに可能性はあります。あるというよりも、実際にすでに裏切ってきています。自分の思いのままになることに固執して、自己を優先し、自分の益を考えて、神様のみ旨に従わないことを度々繰り返し行っているわけです。
「まさかわたしのことでは・・・」。裏切り役を引き受け、その苦しみに耐えられなかったユダの取次ぎを求めつつ、私たち自身が主を裏切る苦しみを味わうことがないようにと祈りましょう。
mickey sdb
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