福音はヨハネから「群衆の間に対立が生じる」と「ユダヤ人の指導者達の不信仰」です。
前の段落では、群衆の間にイエスは誰かと言う事を巡って三度目の論争が起こり、此処では三つの対立が生じたとされています。「この人は、本当にあの預言者だ」、「この人はメシアだ」、「メシアはガリラヤから出るだろうか」、最初の二つは肯定的、最後は否定的な発言が出てきます。43節で「イエスの事で群衆の間に対立:スキスマ:分裂の意、が生じた」と結論付けられています。これは一世紀末のユダヤ教の会堂においてヤムニャ会議でキリスト教徒異端追放令が決定した事をきっかけとして、群衆の中に分裂が起こった事と理解できます。
興味深い事はイエスがガリラヤから出た事が知られている所です。4:44でイエスの故郷は何処かが論じられていますが、其処に於いては神学的なニュアンスを込めてエルサレム=ユダヤがイエスの故郷と考えられていました。歴史的にはイエスはガリラヤのナザレから出たのですが、ヨハネの神学的発想から言えば、イエスは己の民の所に来たのに退けられた、と言うプロローグの言葉から理解できます。更に、ダヴィデの子孫としてベツレヘムで生まれたとするイエスの誕生にまつわる伝承はヨハネの教会にも知られていた事が推測されます。後の段落ではユダヤ人指導者達の不信仰が明らかにされます。祭司長達や、ファリサイ派の人々はエルサレムの人々の問題提議に応えるような形でイエスのもとに下役を遣わしたのですが、今、その結果が此処に記されています。彼らは、戻ってきた下役に対して「どうして、あの男を連れて来なかったのか」と詰問します。下役達は「今まで、あの人の様に話した人はいません」と答えます。此処では逮捕に行った下役達は返ってイエスの教えに驚き、賛嘆して空手で帰って来たと言う展開になっており、ファリサイ派の人々の反応は「、、、お前達までも惑わされたのか、、、」で、「惑わされた」と言う言葉は「異端に導かれる」と言う意味を含みます。生前のイエスの場合でも最高法院とユダヤ教諸派が結束してイエスを殺したとされていますが、一世紀末にも、ヤムニャの最高法院はファリサイ派を担い手として、結束してイエスをキリストではないとし、イエスを信じる者の会堂からの追放を決めて居り、此処ではそう言う結束の強さを示唆し、ヨハネの属した教会とユダヤ教会堂との対立の強さが生前のイエスの場に反映しています。
ニコデモの発言はユダヤ教の側の裁判手続きをさしており、冷静であればその様にするのでしょうが、イエスを殺す事に決めている祭司長たちは其れを無視する態度に出ます。
飯田徹
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