きょうの福音は葡萄の木の喩えのあとに続くものである。ここでは「とどまる」という言葉が何回も出て来る。これはヨハネらしい言葉の使い方である。ちなみにヨハネは、小アジアのキリスト者の共同体に宛てた手紙のなかで「神は私たちに、ご自分の霊を分け与えてくださいました。このことから、私たちが神にとどまり、神も私たちのうちにとどまってくださることがわかります。神は愛です。愛にとどまる人は、神のうちにとどまり、神もその人のうちにとどまってくださいます」(ヨハネ第一の手紙4,13〜16)と同じ言葉が繰り返している。この「とどまる」、「つながっている」とも訳されるギリシャ語「メノー」は「一体性」を意味すると考えられる。
イエスが父にとどまり、父と一体であるように、弟子たち−わたしたち−も,イエスにとどまって、イエスと一体にならなければ、信仰の実りである愛を生きることはできない。主イエスは「わたしを離れては、あなたたちは何もできない」といわれている(15,5)。
村上康助sdb
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