イエスが亡くなられて三日目の午後、二人の弟子がエルサレムから西へ12キロの所にあるエマオの村へ向う途上での出来事として有名な箇所です。
マグダラのマリアにしても、エマオに向う弟子たちにしても共通しているのは、彼らは皆、悲嘆にくれ、失望のうちにあるときの目は遮られ、復活したイエスに気付かないということです。しかし、マリアはイエスから呼びかけられて、またエマオに向う弟子たちはイエスから聖書のみ言葉を聞いた後にパンを割かれた直後、それぞれ目が開かれていきます。それぞれ神の方から与えられる大きな力を私たち自身が実感したときに、イエスを視覚という感覚器官に頼らなくても、十分にイエスを「信じる」喜びに包まれていくという信仰の証しが、これら二つの物語の出来事が示そうとするメッセージではないでしょうか。
そしてマリアもエマオへの弟子たちも、復活したイエスに出会った喜びを感じてすぐに、それを伝えずにはいられない状況へと変えられました(=つまり、復活のイエスを宣べ伝えるという派遣の使命に与かったのです)。聖書のみ言葉を耳にするとき「私たちの心が燃えますように」・・・。そしてパンが割かれ、そのパン(=聖体)を戴くとき、目が開かれて、いつも私と共にいるイエスに気付いていくことが出来ますように・・・。
FR.NAO
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