「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」 この人は、十字架上の死を前にしたイエスに向かって聞いています。
よく受験勉強を「狭い門」にたとえることがあります。受験する学校が決まり受験の日が決まっていて、試験科目も決まっていたとします。そのような状況で、受験生が担任の先生に、「あの学校に合格する者は少ないのでしょうか。心配でたまりません」と言ったとします。そのとき、担任の先生は何と言うでしょうか。「そんなことを聞きにくる暇があったら、自分が決めた目標に向かって勉強しなさい」ということでしょう。
イエスの時代の神学者の間では、だれが救われるかという論争があったようです。わずかな人間だけが救われるという先生がいれば、神様の寛大さによってイスラエル人たち皆が救われるという学者もいました。
イエスが言いたいのは、だれが救われるか、人数はどれぐらいかということよりも、救いの条件について語られるのです。まして、イエスの道は受験ではなく、十字架といういのちをささげる愛の道です。救いを得るためには、「狭い門」から入る必要があります。
聖パウロが言うように、自分の中にキリストの受難と死を受け入れ、へりくだりの道を主とともに進みながらその教えに生きることです。
マザー・テレサのように、”A LIVING LOVE IN ACTION”が、私たちの救いの基準です。あなたはどう思いますか。
A.C
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