喩え話しに表されている、1世紀当時のユダヤ社会の背景を見てみましょう。ユダヤの地を往還し、油・ぶどう酒・包帯をも携帯する。更に二デナリオン(二日分の給料)を、いとも簡単に支払ってしまうこのサマリア人は、商人であった事が伺えます。当時、商人と呼ばれる人々の多くは、消費者を「食い物」とし、商売の上で裕福を享受したため、庶民達からは「泥棒」呼ばわりされ、蔑視されていた職業だったようです。確かに商品に値札などが貼ってあるのでもなく、同じ商品でも「あちらの方が安い」と言う情報も未発達の御時勢ですから、商品価値など幾らでも操作出来たからでしょう。それだけに、イエスが語った喩え話しを聞いていた「群集」と呼ばれる庶民たち(=農民階層の人々)が、この喩え話しを聞いても共感を得るのが難しかったと思われます。しかも「隣人になった」その人は、ユダヤ人たちが劣等民族と蔑んでいたサマリア人でもあったからです。逆に庶民層の共感は「追いはぎ」の方に向けられた可能性があります。それは、当時の農民達は地主階級に支配されていた小作人だったからです。その地主によって土地を奪われ、土地を失った小作農民のなりの果てが「追いはぎ」となっていったケースも多かったのです。
それだけに、今日の喩え話で人々が驚嘆したターニングポイントは、劣等民族のレッテルを貼っていたサマリア人がユダヤ人を助けたというよりも、卑しい職業として蔑視し、「泥棒」呼ばわりしていた商人が、すぐ目の前に自分の助けを必要とする人へ、「寛大」と同情に溢れた行為を示したところです。「隣人とは誰?」ではなく、「隣人になる!」とは、民族や身分・職業などの世間体からする行為ではなく、すぐ目の前の状況に対して、自分自身の持ちものや自分自身の手を差し出すかどうかです。律法学者たちはイエスに対して「質疑」によって挑戦を挑みますが、イエス御自身は「行動せよ」という更なる挑戦によって彼らにも、そして今を生きる私たちにも応答を促しています。
FR.NAO
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