この喩え話しを読んで、「五人の賢い乙女と、五人の愚かな乙女」ではなく、「油を人に分けない五人の意地悪な乙女と、分けてもらえなかった五人の可哀想な乙女」の話だと感じる人もいるようです。そのような方々の為に、喩え話の背景である、1世紀当時のユダヤ地方に於ける村の結婚式の習慣を理解しましょう。
先ず結婚式は夜中に行われましたので松明(たいまつ)は必須です。また、花婿が花嫁を迎える為に彼女の家に向かう慣わしだったので、花嫁側は介添えの友人たちと一緒に自分の家で花婿が迎えに来るのを待ちました。「10人の乙女」とは、花嫁の介添えの友人たちを指しています。そして時計などない御時勢ですから、花婿が時間通りに来る事などあり得ず、到着が遅れる事態などしばしばだったようです。イエスが油を用意した乙女たちを評価したのは、予備の油を準備して花婿を迎えた事です。但し、前述した時代背景で、花婿到着が定刻であるはずがあり得ない時代状況を知れば、予備の油を準備するなど当然の事と理解出来るでしょう。そこで「なぜ油を分けなかったのか?」以上に、「なぜ油を準備しなかったのか?」と考える方がより現実的な発想法と言えるでしょう。
しかし、ここでは敢えて「なぜ油を分けなかったのか?」と言う発想方法をヒントにして考えてみましょう。そこには、この油が「人に分ける事が出来ないもの」を意味しているからではないでしょうか。例えば「その人自身の生き方・与えられたその人の命・その人に与えられたタレント」です。自分の人生を誰か別の人が代わりに生きる事など不可能ですし、命そのものや、タレントそのものを他者に譲渡する事も出来ません。人間には他者に分け与える事が出来ない、自分にしか全う出来ない尊いものがあるのです。その全てを、花婿であるイエスが来られる(=終末の)為に準備していく事が、この喩え話しの中で「油」という形で表されているのかもしれません。続く「タラントンの喩え」(14-30節)でも、各々の戴いたタラントンを三人の僕たちも分け合わなかったように、己にしか灯す事が出来ない「油」や「タレント」があるのです。
FR.NAO
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