今日の福音の、27節と29節に出てくる「・・・不幸だ」という言葉は、もともと「ウーアイ」という呻きの声だったそうです。
いったいイエズス様はここで、律法学者、ファリザイ人など当時、最も模範的な信仰生活をしていた人々の何を指摘しながら、「ウーアイ」という嘆きの言葉を発せられたのでしょうか。
25節にその説明があります。「杯と皿との外側は清めるが、内側は貪欲と放縦とで満ちている」。28節では「偽善と不法」と指摘されています。
渡辺善太という旧約聖書の学者さんは「教会には偽善者が日常的に生まれる。それは避けられない、むしろ歓迎すべきだ」と言っていたそうです。それは開き直りの言葉ではなくて、人間である限り人の目を気にする弱い人間であることを踏まえたうえで、それでもなお、神の前に立ち、神のまなざしの前に自分の弱さとおろかさを悟る必要を説いたのだといえます。
大阪玉造にある大阪女学院中・高の校門にラテン語で「神を畏れることは知恵のはじめ」という旧約聖書の言葉が書かれていますが、それも上記のことに通じるのではないかと思います。
M.M.Joseph
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