きょうの福音は種まきの喩えの解釈に当る部分である。主イエスは人々に多くの喩えを語られたが、その解釈をされたのは、この種まきの喩えと毒麦の喩えだけである。ある聖書学者は、これはイエスのものではなく、おそらく非常に古い初期の教会の解釈がここにある、いうなれば初期の教会の事情があると考えている。それはともあれ、この喩えの真意は聞くことの重要性であろう。三通りの聞き方があげられている。み言葉を心の中に受け入れても育たないことがあるのだ。「道端」、「石地」、「茨の中」に蒔かれた種である。一時的な情熱、この世のものへのわずらい、迫害の恐れ、などが、一度は喜んで受けいれたみ言葉を枯渇させてしまうのである。
戦後数年、わが国でもキリスト教に帰依する者は多かった。日本はキリスト教国になるとまで思われたほどであった。しかし経済的に奇跡の復興を遂げていく間に、その熱狂はいつしか消えて、かわりに今の無関心が残った。それでも70代、80代の世代に洗礼を受けた人々は多いはずだ。主イエスは、この人々が帰ってくる日を待っておられる。そのために私たちに何ができるだろうか。小教区の司牧の目を、ここにもしっかり向けていきたい。
村上康助 sdb
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