今日のマタイ福音書の喩は興味深いものです。無記名の人が登場します。その人が病人で重い皮膚病を患っているのです。人々も宗教家も社会からも除外されて孤独感をしみじみ味わっています。誰も彼を助ける事ができませんでした。本人はイエスに全幅の信頼をおきます。イエスに近寄って、へりくだって、イエスの前にひれ伏して、イエスがどなたかを認め − 主を − 信頼してみ心ならばおできになりますと慎んでいやして下さるよう願い求めたのです。結局、彼は声だけでなく、その存在の全てを主に明け渡すように整えられていたのです。
イエスは分け隔てのない全ての人への神の愛、特に最も小さくされた人、罪人、見捨てられた人を拾って上げられるのです。要するに重い皮膚病を患っている人を癒すことによって、イエスは彼がユダヤ人社会に復帰できるようになさったのです。またそれによって、イエスがつい先ほどまで群衆に向かって語っておられた生き方とは、他の人々と共に生きるべきことが強調されました。
最後に、イエスは重い皮膚病を患っている人に神のなさった業を他の人々に話してはならないと口止めなさいました。何故でしょうか。おそらく、「大勢の群衆」がイエスを迫って山を下り、癒しの業を既に目撃していたからでしょう。多くの証人がこの驚くべき福音を伝えることでしょう。しかしイエスにはもう一つの点、強調したいことがありました。私たちの生き方そのものが、私たちの語る言葉と同じように福音を力強く伝える事です。私たちの生き方は神のみ旨と私たちの信仰を反映するものでなければなりません。御父のも旨に従順であれば、私たちの信仰を表しています。
Fr. Tadeusz
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