イエスが生きておられた1世紀当時の宗教指導者たちにとって、「隣人を愛し」の「隣人」とは、同邦であったイスラエル人のみでした。それ以外の人々は異邦人と分類し、「敵」とみなしたのです。また、たとえ同胞イスラエル人であっても徴税人などは差別して隣人とはせず、敵とみなしたのです。このような民族隔離と職業差別のメンタリティーが一般的だった当時に、イエスは「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」と言います。「完全な」は、「完璧」のニュアンスで捉えられやすいですが、この「テレイオス」という形容詞は元来「欠けたところがなくて、すべて整っている」という意味を持っているそうです。ヘブライ語で「シャレーム」と言うそうですが、やはり、全部揃っていて抜けていないという意味だそうです。しかし、よくよく考えてみて下さい。「私と合う仲間」とか、「気の合わないよそ者」として、人を分類し、差別しているのは、何を隠そう“自分自身”に他ならないのです。つまり、人間関係に「欠けた」部分を勝手につくりあげ、不協和音こそを整えているのは“私自身”なのです。それだけに自分自身の、人との関わりについて「欠けた」部分をなくしていきながら、本来の「愛」という調和した関わりを「整えていく」プロセスが、人をより“完全な者”へと近づけていくようです。
FR.NAO
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