イエスの召命(の自覚)にもし、プロセスがあるとすると、一体どんなものだったのでしょうか?理想の自分と現実の自分の間に罪に関わる葛藤はなかったものの、「神の子」と呼ばれるという自己超越の段階へ一足飛びで向かうことに待ったをかけられる様子が今日の福音で述べられています。神の子として生きることがイエスの召命とするなら、彼はそのプロセスを自らの成熟の道程ととらえていたのかもしれません。自らの類ない召命の完成にむけて、癒しや交わりそして神からの良き知らせを宣言するといった毎日の積み重ねを大事にされた姿が伝わってきます。イエスはまだまだ、他の町や村に行かなくてはいけないのです。まだまだ多くの人に神の愛を伝えなくてはいけないのです。イエス自身の成功や挫折もそこには織り交ざっていることでしょう。喜びも悲しみも、心地よさも疲れもひっくるめて、イエスは全部受け入れることを良しとしました。自己超越の体験のまえに十字架があって、その道を今日も歩まれるイエスにわたしの小さな歩みを重ねたいと思います。きっと力がいただけると信じながら。
若望
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