キーポイントは「食事までしている」。ファリサイ派と律法学者はイエス様をある程度評価していたと思います。しかし罪人と見られる人との扱いについて、イエス様を批判しました。
「食事までしている」とは、「そこまで踏み込んでいく必要があるのか」という意味になります。私達は出逢うだけで簡単に食事に行きます。イエス様の時代は、そうではありません。自分達の背丈(世界観、人生、生き方、生活)にあった人達が食事をしました。イエス様は寛容な心と愛情深い心と眼差しで話をじっくり聞いてくれる人で、一緒にいると悲しい荒れた心が癒される、その様な人だと感じたのだと思います。私達もそういう人と共にいたいと思いませんか。
イエス様はファリサイ派と律法学者の言葉を受けて、「放蕩息子の喩え話」を用いて、父なる神様がこの人達をあなた方以上に大切にしているからだと話しました。神様の方に心をグッと回していこうとする人達こそ、父なる神様が喜ばれることだと説明しました。父なる神様の心に沿って歩む事が大切だと、私達に伝えています。
あの罪人達のように、イエス様と共にいる良さを見出だす事ができますように。またイエス様のように神様の心に沿って歩む事ができますように。アーメン。
POOH
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