「ナザレから何か良いものが出るだろうか」は、ナタナエルが学んできたこと、人から伝え聞いたこと、つまり知識を総動員して考えた結果導き出された回答です。誠実に、そして真剣に考えた結果ではありますが、それでも、そこには彼自身の体験というものが含まれていません。対して、フィリッポの返答は至ってシンプル。「じゃあ行って、自分で確かめてみな!」同様の図式は、キリストの降誕物語の中にも見出だすことができます。キリストを探し当てることができたのは、自らそれを探しに出かけた者たちだけ。他人任せにした者・知識だけを拠り所とした者は、何も見出すことができない。
「神の存在を証明する義務は、存在すると主張する側にある」というのが、論理的に物事を考える人々の共通理解ですが、私たちは自分の体験を誰かに肩代わりしてもらうことができません。私たちにできるのは「私は神を体験した」と主張することまで。…ただ、やり方次第では「私も…」と望む人々が増えるのではないでしょうか。
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