今日のみ言葉

今日の『み言葉』(聖書朗読箇所)をよく噛んで、
ゆっくり味わいながら頂くように致しましょう。
『み言葉』はリンク先「今週の聖書朗読」で読むことが出来ます。
どうぞご利用下さい。
2012/07/28    年間第16土曜日 エレミヤ 7/1-11 マタイ 13/24-30
 
 福音はマタイから「毒麦の喩」です。マタイはマルコの「成長する種の喩」を採用せず、代わって「毒麦の喩」を置いて居ます。マタイは「種蒔く人の喩」の説明部分に於いて、人は自らの努力であらゆる困難を克服して「実を結ぶ」べき事を強調しましたので、一度蒔いた後は収穫の時まで放置しておくと言うマルコの喩は、マタイの文脈に相応しく無いと考えたものと思われます。
 
 「毒麦の喩」はルカにも無いので、出所は不明です。しかしこの喩は「成長する種」と共通する要素――眠る、麦、芽が出る、実る、刈り入れ、等の語が双方に含まれて居り、どちらの場合も、主人は収穫まで手を下しません。しかし、二つの喩の意図は明らかに異なって居るので、マタイは独自の資料から喩を得たと考えられます。しかしその事は、現在の喩がそのままの形でイエスに遡る真正の言葉で在る事を意味するものでは有りません。マタイは自分の解釈をイエスの言葉として喩の後に並べたのですから、恐らくマタイは自分の解釈に合う様に喩を改変して居ます。少なくとも朗読箇所終りの30節はその様に考えられます。更に、喩の本来の狙いは、29-30節の主人の言葉「いや、毒麦を集める時、麦まで一緒に抜くかも知れない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼く為に束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。」に見られるところですが、其れを引き出すための問いは、やっと28b節でなされて居ます。つまり前半の24-28a節は良い麦を蒔いたはずの畑に毒麦が現れるのは、主人や僕たちの責任では無い事を述べて居るので在って、この短い物語の展開に於いては、別の要素の付加と言う趣が在ります。
 
 27節の質問「だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう」は既に寓喩的解釈の方向に向いていて、「敵」の登場も喩の中で唐突観を否めません。其れ故、25、27、28a節は依り古い伝承に二次的に付加されたと考えられます。そしてこれら三箇所を括弧に入れた方が、喩の主旨が依り鮮明に成ります。パレスティナではしばしば麦の中に混じってどく麦も一緒に育ったそうですが、それらは始めの内は良く似て居り、見分け難く、互いの根が絡んで毒麦だけ引き抜くのは難しかった様です。其処で収穫の直前まで待って、収穫しながら選り分けたそうです。
 
 イエスはこの様な農民の実際的な知恵を借りて、人が良し悪しを性急に識別し、分離する事の危険性を教えました。それは、この世に悪が現に存在しているにも拘らず、神の国は其れに妨げられる事無く、確実に到来しつつ在ると言う確信に裏付けられた発言で、人間は神の裁きの代行をし得ないと言う考え方です。マタイは喩をマタイの属する教会に適用し、正しいキリスト者がいるはずの教会の中に何故悪しきキリスト者が居るのか、どの様に対処すべきかを、終末の裁きへの期待で答えて居ます。
 
飯田徹
 

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Last updated: 2012/11/30

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