悔い改めない町を叱るエピソードです。では、一体だれが、どのような人々が叱られたのでしょうか。あるいは、町が全体として、共同体として叱られたのでしょうか。今日は、すこし穿った見方をしてみようと思います。
前提となる考え方は、「イエスは信仰の無いところでは、奇蹟を行うことができない」というものです。イエスの奇蹟物語を見てみると、信仰を持つ者が居る場合と、奇蹟の結果、信仰を持つようになった者が居る場合のどちらかです。今日のエピソードを例外として捉えてしまえば、話はそれで終わってしまいますが、ここでは例外扱いをしません。コラジン、ベトサイダには信仰を持った者たちが居た。さらに、信仰を持つようになると期待される者たちが居た。だから、イエスが奇蹟を示された。ここから出発します。ですから、叱られたのは「信仰を持つ者」と「信仰を持つと期待された者」の二者です。
イエスは、信じようとしない人々を叱ったのではなく、町を叱っています。皆で叱られたのです。「信仰を持たない者たちが叱られた」と考えてしまうと、今日、信仰を持っている私たちは安心してしまいますが、この場合、信仰を持つ者たちも「その使命を果たさなかった」として、叱られていると考えるのが妥当ではないでしょうか。そうすると、最早安心しているわけには行きません。皆さんはどのようにお考えになるでしょうか。
eno
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