講話や黙想指導を依頼されて、いつも困ることがあります。それは「何を話せばいいんだろう?」という問題です。「その時に、聖霊が働いて下さいますよ」と聞く側は、今日の福音の言葉を引用して励ましてはくれますが、頼まれた側としては、その時、その場に立って何でもいいから話すなんて無責任なことは出来ませんよ!それだけに、神のことばをきちんと語ろうと思ったら、話す側は、それなりの準備が絶対に必要なのが事実です。
だから、きちんと人前で、キリストのみことばとその信仰を語るには、普段から、みことばを聖霊の働きに促されつつ黙想しているかにかかっていると思います。自分の生活を、みことばに合わせて感じてみたり、自分の考え方を福音の価値と照らし合わせて振り返ってみたり…っと……。みことばを味わううえで、私たちはどれだけ、聖霊の働きに対して「賢く」かつ「素直に」なっているでしょうか。
だから、単にみことばと信仰について、「神父さんが、頭で理解したことを話されても、よく分かりません」って言われた事が多いです。聖霊の働きを通して、頭で“賢く”理解したことを、いかに聖霊の働きによって、自分の実生活に“素直に”あてはめてみながら黙想するか…。現実の自分の至らなさを痛感しつつも、神の言葉に支えられて立ち上がるか…。みことばを自分なりにしっかりと味わえて納得した時、人前に立たされても、みことばに支えられて「何をどう言おうか心配」していない自分がいます。
FR.NAO
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