「キリスト者は復活を信じているのに、なぜ、人の死に直面して悲しむのか」という質問を投げかけられたことがあります。「息子が就職のために家を離れて行くとき、息子の自立を喜びつつも、別離の悲しみを覚えない親があるでしょうか」と応じたのですが、果たして的を射ていたのかどうか。皆さんならどのように説明するのでしょうか。
イエスが「どこか遠いところ」に行くというのに、弟子たちはどこへ行くのか尋ねようとしません。あまりに悲しくて…。私たちは、弟子たちがそうしたのと同じ仕方でイエスと触れ合ったことがありませんから、弟子たちの悲しみを理解できないかも知れません。しかし、このときの弟子たちの悲しみが、将来イエスと対面するの私たちの喜びと対を成していることを考えると、この悲しみについてはじっくりと黙想する価値がありそうです。たとえそれが、つらい黙想であったとしても。
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