今日のみ言葉


今日の『み言葉』(聖書朗読箇所)をよく噛んで、ゆっくり味わいながら頂くように致しましょう。
『み言葉』はリンク先「今週の聖書朗読」で読むことが出来ます。
どうぞご利用下さい。

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2012/12/03  聖フランシスコ・ザビエル司祭 祝 1コリント 9/16-19,22-23 マルコ 16/15-20
 
  「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか」(ルカ9章25節)。今日記念するフランシスコ・ザビエルは、スペイン・ナバラ地方の貴族の家に生まれました。1526年からパリ大学で学び、そこでイグナチオ・ロヨラと知り合います。ザビエルはこのみことばを大学の同僚イグナチオ・ロヨラから聞いたために回心したとも言われています。
 
 今日の第一朗読でパウロは「もっとも、わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。」(Tコリント9章16節)と語っています。ザビエルもロヨラを通してキリストと出会い、パウロのように自分の生き方を180度転換させました。それは、名門パリ大学で学問を学んで社会的に成功する生き方をひた走っていた彼が「人間の心を本当に満たすものは何なのか」という根本的な問いにぶつかったことによるのです。そして「福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです」(Tコリント9章16節)という境地に達して、今日の福音箇所である「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」(マルコ16章15節)というみことばを文字通り、自分の人生をかけて生きて、極東の地である日本まで来たのです。
  
 今日、私たちも「人間の心を本当に満たすものは何なのか?」という問いを自分自身にしたいと思います。そして願わくは、パウロやロヨラやザビエルのように「福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです。」という思いに少しずつでもなっていきたいものです。
                                            
ぼすこ

2012/12/04  待降節第1火曜日 イザヤ 11/1-10 ルカ 10/21-24
 
 「これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました」と訳されていますが、原文では「幼子のような者」ではなく「幼子」そのものです。ところで、「これらのこと」が何であるかは前後の文脈を見ても、なんだかはっきりとしません。『マタイによる福音書』の並行箇所を読んでみても、全然文脈が違っていて、やはり「これら」が何であるのか明快な答えが見つかりません。まるで福音記者たちが「自分で苦労して見つけ出して欲しい」と言っているかのようです。
 
 では先ず、幼子と知恵者・賢者との違いについて考えてみましょう。それは、経験と知識です。知識と経験の豊富な者には隠され、未熟な者には示されるというのですから、「これらのこと」というのは、それまでの常識を覆すような何かであると言えるでしょう。具体的には……おっと危ない、皆さんが自力で答えを見つけ出す喜びを奪うところでした。今日はこの辺で失礼します!
 
eno

2012/12/05  待降節第1水曜日 イザヤ 5/6-10a マタイ 15/29-37
 
 福音書では「神はともにおられる」ことを伝えます。今日の福音でも病に苦しむ多くの人へのいやしの業、また四千人に食べ物を与えるイエスの姿があります。
 
 イエスからのいやしを受けた人々は神を賛美しています。その出来事をとおして神を賛美する、神への信仰を深めているといえましょう。10月から信仰年がはじまっていますが、「神はともにおられる」ということを思い起こしましょう。また待降節がはじまりました。主の到来を待ち望む生き方を日々重ねていきたいものです。
 
TH

2012/12/06  待降節第1木曜日 イザヤ 26/1-61 マタイ 7/21,24-27
 
  「わたしの父の御心を行う者だけが天の国に入る」
 
 イエス様に向かって、「主よ、主よ」と言う者がみな、天の国に入るわけではないと言っておられるのです。ふだんは全く神様のことを考えもせず、困った時もただ口先だけでめぐみをおねがいするような人や、神様が私たち人間に教えてくださったことに対して平気で逆らうような人は、そのままの状態では神様に受け入れていただけないのです。神様の教えに忠実な者が神の国に入る資格をいただくことができるのです。
 
RSDB

2012/12/07  聖アンブロジオ司教教会博士 記 イザヤ 29/17-24 マタイ 9/27-31
 
 今日の福音を読むと、世の中にあって、自分こそが信仰において目の不自由な者であると感じる。見えるようになるのに、一つの方法しかない。それは、心から光を強く望み、人生の道を歩みながら、通り過ぎるキリストに謙虚に願うことである。主はその光を押し付けることなく、私がそれを望み、心を開くことを待っておられる。
 
 自分たちが何でもよく見えると思っていた律法学者たちは、彼らの見方が誤っており、目の不自由な人だとイエス・キリストは断言する。それは、傲慢さが、心の目を暗闇に包むからである。
 
 主はその人の目を触れるというしるしをお見せになるが、奇跡を起こすのは、その人の信仰である。信仰こそ、新たな目ですべてを見ることができるようにしてくれる主の最高の恵みである。
 
Achille Loro Piana

2012/12/08  無原罪の聖マリア 祭 バルク 5/1-9 フィリピ 1/4-6,8-11 ルカ 1/26-38
 
 一人の女性マリアが神の母となることを受諾したことが記されています。天使ガブリエルから突然あいさつされ、これから自分の身に起こることを淡々と聞かされたマリアは、文面からは感じ取ることのできないくらいの驚きととまどいを受けたことが想像できます。
 
 注目すべきはマリアの凛とした返事です。それはイエスの母となることの決意とも取れる力強い言葉です。マリアは天使ガブリエルから言われたことをすべて理解したうえで返事をしたわけではありません。わかっていなくてもこれは神から求められている自分の使命だと直感で悟ったので「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と答えたのだと思います。若き女性らしからぬ度胸のよさを感じます。カナでの婚礼で起きたハプニングでも慌てることなく冷静に対処するマリアの姿をヨハネ福音記者は記しています。
 
 今日、私たちは無原罪のマリアを記念して、神の母となるマリアが神様からの特別な恵みによってあらゆる罪から守られていたことを思い出しています。凛とした強いマリアの姿は罪のない存在にふさわしく感じられます。クリスマスを迎えるにあたって私たちが少しでも強く清いマリアに近づけるようにしたいものです。
 
T.K

2012/12/10  待降節第2月曜日 イザヤ 35/1-10 ルカ 5/17-26
 
 「罪と病気」
 
 がむしゃらに仕事を立て続けにこなした後、ふっと気を抜いたところで風邪をひいてしまったという経験はないだろうか。どうやら、心と体は思ったよりもつながっているようだ。不安になればおなかも痛くなるし、緊張した後は肩がこる。
 
 罪と病気は関係ない様に思えるが、罪の結果はやはり心の病気だ。罪によって神様に向かう私たちの心は閉ざされ、潤いを得られず干からびたり、硬くなったりする。当然、私たちの体にも影響があるだろう。
 
 イエス様の癒しの意味は単なる病気の回復ではなく、その根源にある私たちの罪からの解放だ。
 
 病は気からと言う。この待降節にイエス様によって罪の束縛から解放されて、明朗かつ健全な心で御降誕を迎えたいものである。
 
KAUS

2012/12/11  待降節第2火曜日 イザヤ 40/1-11 マタイ 18/2-14
 
 羊飼いは、いくら沢山の羊を飼っていたとしても、その1匹1匹はとても大切な存在で、そのうちの1匹でもいなくなったら、決してあきらめたり見捨てたりすることなく捜すもの。イエス様は、そんな羊飼いの姿を私たちに思い起こさせる事によって、神様の姿、思いを私たちに気付かせてくださいます。
 
 全世界にいくら大勢の人類がいたとしても、神様にとって一人一人が大切な存在であり、神様は、かけがえのない命として大切にしてくださる方。「荒れ野」で彷徨う者を捜される方。神様にとって「私」はかけがえのない命であることに、イエス様は気付かせ、慰めて下さいます。
 
 第1朗読で扱われているイザヤ書のその箇所は、イザヤ書の中でも「慰めの書」と呼ばれているところです。異国の地(「荒れ野」)に連れて行かれたイスラエルの民に向けられた神様からのメッセージで、彼らに慰めと希望を与えました。
 
 今日の福音は、私たちにとっての「慰めの書」です。神様の慰めのメッセージを深く味わいましょう。神様がそばにいてくださらないと感じてしまう「荒れ野」の中で、孤独と不安を感じながら生きている人に、特に慰めと希望を与えて下さいます。
 
 キリストの慰めの言葉は私たちに向けられています。「荒れ野」から抜け出しましょう。「荒れ野」にいる人に伝えましょう。
 
mickey sdb

2012/12/12  待降節第2水曜日 イザヤ 40/25-31 マタイ 11/28-30
 
 今どんな重荷を背負っているか。どんなプレッシャーを感じているか。それをちょっと自分に問いかけてみることも大切だと思う。もしかしたら、人間関係で重荷を感じているかもしれない。何か乗り越えるべきハードルがあるかもしれない。または過去の傷に悩まされているかもしれない。意外と自分では気づいていないストレスもあると思う。どこか力が入っているかもしれない。
 
 この私たちにイエスは「私のもとに来なさい、休ませてあげよう。」とおっしゃっている。たびたびイエス様のところに行って、力を抜いて、神様の愛の中でゆっくりリラックしていきたい。こうやって私たちは、共に歩んでくださっているイエスから力を得て、前に進むことができる。
 
Tsujiie

2012/12/13  聖ルチアおとめ殉教者 記 イザヤ 41/13-20 マタイ 11/11-15 
 
 イエス様は洗礼者ヨハネの偉大さを讃え、そしてこう言われています。「彼が活動し始めたときから今に至るまで、天の国は力ずくで襲われており、激しく襲うものがそれを奪い取ろうとしている。」と。
 
 善に対して邪魔するものが出てきたり、良いことが始まると妨げようとする働きがあったりします。この待降節も、キリスト者として今一度自分の信仰生活を振り返り、救いの喜びに与れるようにと、悪い習慣を改める努力をしたり、善に励もうとすれば、何かと邪魔されたり、それを遮ろうとする力も働きかけてくる事があるかも知れません。これに対して私たちはどう対処すればいいのでしょう。自分に襲い掛かって来るものに、こちらも襲い掛かるか?疲労するばかりで、あまりいい効果は期待できそうにありません。むしろ相手の思うつぼにはまってしまう事でしょう。
 
 今日の第1朗読のイザヤ書にヒントが示されています。私たちがするのは「恐れない」こと。神様は、「恐れるな、わたしはあなたを助ける」と繰り返し言われております。「わたしは彼らを見捨てない」とも。主の御手に委ねましょう。
 
 面倒に巻き込まれるなら善も回心も何もしない?そうであれば、すでにあなたは心を奪い取られていませんか?
 
mickey sdb

2012/12/14  聖ヨハネ(十字架の)司祭教会博士 記 イザヤ 48/17-19 マタイ 11/16-19
 
ノーベル文学賞をもらった故・川端康成さんが座談会でこんなことを言っていたそうだ。「文学批評は難しい。特にほめることが難しい。なぜかというと、座っていてはだめで、立って、相手である著者のほうに気持ちをもっていかなければならないから」。こちらに座り込んだまま、好きな作品を読んで、気に入ったところだけをつまみ食いしているだけでは批評にはならない。
 
 私たちの祈りも、座り込んだままのことが多いのかもしれません。祈るということは、川端さん流にいえば、立ちあがって、自分の気持ちを神様の方に持っていくこと。そして神様をほめたたえることです。それが、主イエスとともに喜ぶことになって行くわけです。
 
M.M.Joseph
 

2012/12/15  待降節第2土曜日 シラ 8/1-4,9-11 マタイ17/10-13
 
 福音はマタイから「イエスの姿が変わる」の後の1/3程です。
 
 エリヤは終末時に再来すると期待されていた人物で在り、其処にモーセも居る事は、終末がいよいよ間近い事を示します。つまりイエスは終末時に救済をもたらすと約束されていたメシアで在ると。そして旧約の人物のみならず、神御自身がイエスを「神の子」と宣言します。イエスを神の子と信じるのは人の判断に依るので無く、神からの賜物であり、此処ではそれを神御自身が教えます。
 
 仮小屋を建てようと言うペトロの提案は、こうしたイエスと旧約の人物の関係を正しく理解しておらず、3人を同じレベルで捉えようとした事を意味します。そうした背景の後、下山の途中でイエスは「変容」の場面に居たと言う特別な体験を、誰にも喋るなと命じます。此れはマタイ福音書における5回目にして最期の沈黙命令ですが、此れまでとは違って、「人の子が死者の中から復活するまで」と言う限定が付けられています。つまりイエスが復活して教会の宣教の時代に入れば、この体験を積極的に述べる事が期待されています。
 
 そしてイエスをメシアと信じる信仰から見て、メシアに先駆けて現れ準備する人物:エリヤとは、具体的には洗礼者ヨハネで在った事を弟子達に悟せます。13節でマタイは、弟子達が正しい理解を得た事を明記し、ユダヤ教の学者達が単に頭の中で未来への予想として考えている事が、既に現実化しつつある事を示します。
 
飯田徹

2012/12/17  待降節第3月曜日 創世記 49/1-2,8-10 マタイ 1/1-17
 
 今日の福音は、主イエス・キリストの系図です。ご降誕祭を数日後に控えている私たちにとって、ぴったりの福音ではありますが、長い固有名詞の羅列で、さぞ読みにくくて、それほど大切ではない聖書の個所だと思われがちではないでしょうか。
 
 ところが、そうではありません。その当時の人にとって、自分の系図が非常に大切でした。社会の中で認められたり、出世したりするには、家柄が決めてだったそうです。確かに、もし主イエスはダヴィデ王の子孫でなかったならば、たぶん、その当時の人には救い主として認められることができなかっただろうと思われます。それにまた、救い主イエスがダヴィデ王の子孫として生まれたことは、預言者の言葉が成就するためでもありました。
 
 旧約時代の人は何百年も救い主の到来を待っていました。待降節に当たって、彼らの希望や期待は、再びお出でになる主イエスに対する同じ希望と期待であるように、祈っています。
 
Achille Loro Piana
 

2012/12/18  待降節第3火曜日 エレミヤ 23/5-8 マタイ 1/18-24
 
 「インマヌエル」
 
主イエス・キリストは誰であるか、現在はどこにおられるか、というテーマについて皆さんに分かち合いたいと思います。
 
主イエス・キリストは単なる歴史的な人物だけではない、現在にいたるまで、我々と一緒に歩み続けておられる方なのです。「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。」(ヘブ13:8)。言い換えれば「インマヌエル」(マタイ1:23)「神は我々と共におられる方」です。そして、世の終わりまでいつも私たちと共におられる方なのです。これは、わたしたちの信仰と生活の中心的なテーマだと思います。パウロが言う通り「「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」(ガラ2:20)私たちは日々の中に一緒に歩んでくださる神様がおられるから、もう安心!何事も心配することはないでしょう。暗い道の中で一人で歩くより二人で歩いた方が安心ではありませんか。ですから、わたしたちは一人で思い悩んだり、耐え忍ぶことがないように共に歩んでいる神様に信頼して、委ねることは大事なことではありませんか。
 
 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11:28)と神様は約束してくださったではないでしょうか。世の中で「私はダメな人間だ」と思い込んでいる人々が大勢います。無縁社会で部屋に引きこもったり、生きる希望を失う人もいます。何故そういう結果になったのか。神様への信頼により、自分自身をも信じるこが大切ではないでしょうか!
 
 私たちの人生においても同じことです。喜びや悩み、迷うことは当然出てくることです。弟子たちが舟に乗った時に出会った逆風の場面を思い起してください。その時、イエスは何と言ったか。「私だ。恐れることがない」私はついていきますから、もう大丈夫、安心しなさいということです。わたしたちと共におられる神様はそのような神様です。私たちが信じている神様は交わりの神様です。三位一体の神様です。ひとりで行動する神様ではありません。我々と共におられる神様(インマヌエル)です。死に至るまでわたしたちのために与え尽くした神さまです。ですから、キリスト者である私たちはキリストの生き方を学ばなければならいと思います。自分の周りの人と関わりながら、神の姿と神の生き方を見つけるように努めましょう。これはクリスマスの本来のメッセージとも言えるでしょう。
 
アントニオ
 
 

2012/12/19  待降節第3水曜日 士師記 13/2-7,24-25 ルカ 1/5-25
 
 恐れるな・・・わたしたちの思いはこの「恐れ」に打ち負かされることがあります。恐れず、信仰のうちに前を向いて歩いていく人の姿は、わたしたちの心を大きくゆさぶることでしょう。
 
 今日の福音では年老いたザカリアとエリザベトが登場します。神への信頼のもと、毎日祈りのうちに生活していたことを知ることができます。その祈りが聞き入れられ、その喜びのしるしとして、彼らは新しい命を授かることになります。この一連の出来事を通して「主は今こそ、こうして目を留めて」くださる方であることを伝えています。
 
 わたしたち一人ひとりにも目をかけてくださる主のまなざしを、今、ここで感じ体験していきたいものです。恐れるな・・・わたしたちの心を閉ざしてしまうことのないようにしていきましょう。
 
TH
 
 
 「あなたの願いは聞き入れられた」こう天使はザカリヤに話しかけ、エリザベトとの間に子供が生まれることを知らせる。しかし、ザカリヤはそれを心から信じることができなかった。神に願っていたのに、いざそれがかなうと知らされると信じられない。願っているにもかかわらず、どこかに「そんなことはまあ無理だろう」という気持ちがあったのではないだろうか。つまり、ザカリヤは、人間の力をはるかに超える神様の力を心から信じてはいなかったのだ。
 
 私たちにもそういうことがないだろうか。私たちは神様に願うとき、心から神様の力を信じているのだろうか。
 
Latta

2012/12/20  待降節第3木曜日 イザヤ 7/10-14 ルカ 1/26-38
 
 今日の福音は、マリアのお告げの場面です。驚くべきことは、ガリラヤの1人のうら若い女性の一言が、神の救いの歴史を大きく前進させることです。「Fiat (お言葉どおりになりますように)」というマリアの言葉を、どれほど神御自身が待っておられるか、そして、ベルナルドの言葉を借りるなら、まさに全被造物が今か今かとその一言を待っているということです。
 
 この一言で、神は人となって、私たちと共に住むことになられたのですから。マリアの「Fiat」ほどではないかもしれませんが、神は私たち一人ひとりの「Fiat」を待っておられるのかもしれません。
 
 ささやかな存在でささやかな役割かもしれませんが、この世に命を頂いた以上、すべての人には神の救いの歴史に果たす役割があります。そして、その役割に「Fiat」と応えることを、神が待っておられる。私たち一人ひとりの今日一日の「Fiat」を、マリアと共に主に捧げたいものです。
 
John Goto

2012/12/21  待降節第3金曜日 雅歌 2/8-14 or ゼファニヤ 3/14-17 ルカ 1/46-56
 
 「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」エリザベトはマリアに向かってこんな心からのほめ言葉をささげました。ふつう、信じるまでにもしかしたら、人はすごいエネルギーを使うのかもしれません。信じていいのかな、いやまさかそんな。信じたところで、なにが変わるんだ、とつぶやいてみたり、抵抗したり。マリアさまだって、信じるために葛藤がありました。まさか、私が、と。でも、エリザベトはマリアさまにこう言ってあげたのです。「信じるってすばらしいことね。あなたがとっても輝いて見える。神さまの恵みの力は計り知れない」と。大変なエネルギーを使った分、そして何よりも私が信じるという以上に、信じるように導いてくださる方に私のしきれない分を委ねてみれば、いっそうの輝きがあるのだろうと思います。そして、それを支えてくれたり、わかってくれたりするエリザベトさんがあなたの周りにもきっといるはずです。今日、こころを少しばかり、神さまに向けてみましょう。そして、友と分かちあってみましょう。 
若望
 

2012/12/22  待降節第3土曜日 サムエル上 1/24-28 ルカ 1/46-56
 
 「力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから」
 
 マリアはなぜ偉いのでしょう。神の母だから?無原罪だから?否、神がマリアを通して偉大なわざを行われたからです。ただそれだけ。そして十分であります。偉大なのは神。
 
 私たちがどんなにどうにもならなくても、神は私たちを通して何かをしようと企んでおられる。これもまた、私たちの信仰です。
 
John GOTO

2012/12/24  降誕前日 サムエル下 7/1-5,8b-12,14a,16 ルカ 1/67-79
 
 「われらの歩みを平和の道に導く。」
 
 毎朝教会の祈りで唱えられる「ザカリアの賛歌」の最後の言葉が心に響きます。神の憐れみによって救いが訪れるというメッセージです。私たちは日々、一人ひとり自分の道を歩んでいます。その道と、この時生まれた幼子がやがて呼び掛ける「整えるべき主の道」とが合わさるとき、私たちの歩みが平和の道となっていくということを思い起こしたいと思います。
 
 平和とは何でしょうか?現代の世界を生きている私たちにとって、主の降誕が本当の平和をもたらすものであるように祈りたいと思います。
 
missin

2012/12/25  主の降誕 祭
 
(夜半)イザヤ 9/1-3,5-6 テトス 2/11-14 ルカ 2/1-14
 
 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。イエスの誕生は歴史的な事実である。ルカはキリニウスがシリア州の総督であった時にイエスが生まれたと記している。イエスの誕生日は知られていない。初めの頃、教会は、キリストの全神秘を記念する復活祭だけを祝っていた。しかし三世紀になって、キリストの誕生を特別に祝う望みが生まれてきた。正確な誕生日がわかっていなかったので、もっともふさわしい日を選ぶことができた。こうして太陽神を祝う12月25日を正義の太陽キリストの誕生日にあてたのである。六世紀にはローマ建設から数えていた古い暦が、キリスト誕生の年を基点とする暦に変えられた。この計算には4〜7年の誤差があるそうだ。でもそれは重大なことではない。大事なのはイエスの誕生によって新しい時代が始まったということである。
 
 天使たちは「いと高きところには栄光、神にあれ。地には平和、御心に適う人にあれ」とこの晩、神を賛美して歌った。神の御心、それはだれも排除しない神のいつくしみである。すべての人をつつみこむ神の愛と慈しみが現われた夜、人間の新しい時代が始まったのである。父なる神は最愛の御子をおくることによって、人間と世界を肯定してくださった。これがクリスマスの喜びである。この大きな喜びを私たちも告げ知らせていこう。
 
村上康助 sdb
 
 
 主の降誕 おめでとうございます。
 
 シリア州の総督 キリニウスの時代に行われた最初の住民登録の頃ダビデ王の町ベトレヘムの馬小屋に飼い葉おけの中に布にくるまれた幼子が生まれた。
 
 父ヨセフは大工 母マリアの子として生まれた幼子。これが来たるべき救い主だという。そして今の私たちに「主が生まれた」ことを知らせています。
 
 イザヤは私たちの人生や世界を如実に語っています。暗闇の世界に大いなる光が見えた。死の陰の地に住む者の上に光が輝いた。深い喜びと大きな楽しみをお与えになった。まさにその通りです。
 
 世界は、身近な社会は様々なことが起こりました。今も片付いていません。世界には悲しみが漂っています。でも、今、世界の片隅から大きな光が輝きだしました。一人一人の光が絆のように、家族のようにつながることによって、闇の世界は次第に明るくなっていくのです。主が生まれた!救いが始まった!この良い知らせを多くの人と分かち合いながら、世界を明るくしていきましょう。
 
 全ての人の上に平和と大いなる喜びを。
       POOH
 
 
 
(早朝)イザヤ 62/11-12 テトス 3/4-7 ルカ 2/15-20
 
 
 羊飼いたちは、「主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と、急いで行きます。急いでイエスを探しに行きます。そして、飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てます。「その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせ」ます。羊飼いたちの話を聞いた人々は、その話を不思議に思いますが、「マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思いめぐらしてい」ました。
 
 羊飼いたちの振る舞いは、私たち自身の振る舞いでもあります。私たちもイエスを急いで探しに行き、イエスを探し当て、イエスを人々に知らせましょう。人々は不思議に思うかもしれませんが・・・。
 
           kita
 
(日中)イザヤ 52/7-10 ヘブライ 1/1-6 ヨハネ 1/1-18
 
 福音朗読では、ヨハネ福音書の冒頭部分が読まれました。この中でイエスは、「神のみことば」と呼ばれています。それは、イエスが神を完全に掲示する方であることを示しています。イエスの言葉は、まさに神の言葉であり、イエスの行いは、まさに神の行いであるということを意味しています。私たちは、イエスという一人の人間を通して神に近づき、神を知ることができるのです。
 
ある意味では非常にまわりくどいやり方かもしれませんが、神は、このようにしてご自分を啓示されたのです。神は全能な方ですから、地上をあまねく照らす太陽のように、ご自分の存在を一瞬にしてすべての人に知らせることもできたはずです。否応なく信じざるを得ない形で、ご自分を啓示することも可能であったはずです。でも神はそうはなさらなかったのです。
 
 私たちにとって必要なことは、イエスの教えを学び、それを受け入れ、そしてイエスとともに生きることができるようになることです。そうすることによって、父なる神とも緊密に結ばれていくのです。クリスマスにあたり、私たちがもっとイエス・キリストに結ばれますように祈りたいと思います。
 
鈴木英史

2012/12/26  聖ステファノ殉教者 祝 使徒言行録 6/8-10;7/54-60 マタイ 1017-22
 
 使徒行録(7:54〜)の中に出てくるように聖ステファノは、教会の最初の殉教者として、登場します。勿論クリスマスにあたって、イエスさまの身代わりになり、ヘロデから殺害された「幼子殉教者」もいますが、教会が成立してから、ステファノが最初
の殉教者となります。
 
 日本の教会は一つの特徴をもっています。435名の聖人・福者がいますが(42名の聖人と393名の福者)全員が殉教者なのです。そしてその中には沢山の子供たちもいました。「子供なのに」と思いますけど、今日のイエスさまの言葉は本当に私たちの慰めになります。「イエスさまの父の霊」が私たちを導いて下さるからです。でもそのためには、常日頃から「イエスさまの父の霊」と懇意になっている必要があります。
 
 イエスさまのもう一つの言葉「天の父が自分に求めるものに、聖霊を下さらないことがあるだろうか」。(ルカ11:13)も是非お忘れなく!!
 
Tpaolin

2012/12/27  聖ヨハネ使徒福音記者 祝  1ヨハネ 1/1-4 ヨハネ20/2-8
 
 今日は、聖ヨハネ使徒福音記者の祝日を祝っています。ヨハネは、「主に愛された弟子」(ヨハネ13,23)としても知られています。イエスはヨハネに「雷の子」(ルカ9,54)とあだ名を付けられました。彼は十二使徒の中で、何度も大事な出来事があった時にはイエスのそばにいました。ご変容の時にも(マルコ9,2)、イエスのゲツセマネの園での苦しみの時にも(マルコ14,33)、その場にいました。最後の晩餐の時にはイエスのすぐ横に座り(ヨハネ13,23)、十字架の下ではマリアと共に立っていたただ一人の弟子でした(ヨハネ19,26)。
 
 ヨハネの言葉に大きな重みを与えるのは、このイエスとの親密さでした。彼の唯一の狙いは、世にイエスを伝えることでした。ヨハネは、仲間の使徒シモン・ペトロと同じく、「巧みな作り話」(2ペトロ1,16)を用いたのではありませんでした。ヨハネの言葉には真理の響きがありました。それはヨハネが、人となられた真理であるイエスに親しく結ばれていたからです。彼は御子の受肉につて語る時、「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れた命のことばについて伝えます」(1ヨハネ1,1)。イエスは人の姿で来て下さったので、見て、触れて、聴くことができました。イエスは私たち人間に神のいのちをもたらすために来られたのです。
 
 福音書はヨハネの証言だけで終わるのではありません。聖霊によって、私たちは一人ひとりが、イエスを深く体験することができます。神の言葉が単なる言葉以上のものだからです。つまり、神のことばであるイエスは神の言葉を語り、それらを「生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く」(ヘブ4,12)、私たちをイエスと直接向き合わせる力に満ちています。私たちの心を変える力がるのです。ヨハネに倣って、新しい年には、彼を道案内としてイエスの後を追って走る決心をいたしましょう。
 
Fr.Tadeusz
 

2012/12/28  幼子殉教者 祝 1ヨハネ 1/5-2/2 マタイ 2/13-18
 
 ヘロデ王のエゴイズムにより多くの幼子の命が奪われる事になってしまいました。救い主の誕生の祝いの影にこんな恐ろしいことがあった事実を、賑やかにクリスマスをお祝いした人々の中で、どれだけの人が知っているのでしょう。
 
 しかし、幼子の殉教はあの時だけではありません。人間のエゴイズムにより奪われる命は後を絶っていません。特に現代の日本社会において、人口減、少子化の問題が深刻化していますが、その裏には悲しい現実が溢れているわけです。自分の幸せの妨げと見なされて葬られていった幼子の魂に慰めと光が与えられますように。
 
ヨハネは記しています(第1朗読)。「たとえ罪を犯していても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。この方こそ、私たちの罪、いや、私たちの罪ばかりではなく、全世界の罪を償ういけにえです。」と。私たちのどうしようもない弱さによる過ち、罪をゆるし、痛み、悲しみを癒して下さいますように。
 
mickey sdb

2012/12/29  主の降誕第5日 1ヨハネ 2/3-1 ルカ 2/22-35
 
 イエスの両親は神殿でシメオンに出会います。このシメオンとの出会いの中に活躍しておられるのは聖霊です。両親がシメオンと出会う短い記述の中に3回も言及されています。シメオンは聖霊の導きに温順な人でした。マリアとヨセフも聖霊に温順であったことは一連のクリスマスの物語から私たちは知っています。
 
 聖霊の導きに従った人たちが出会う先には当然イエスがおられます。反対の言い方をすれば、聖霊のおられないところで私たちはイエスと出会うことはできないのです。
 
Pat

2012/12/31  主の降誕第7日 1ヨハネ 2/1-21 ヨハネ 1/1-18
 
 今日の福音はヨハネ福音書の冒頭部分ですが、ここではイエス・キリストについて絡まった糸をほぐすように説明されています。その中で注目したいのは「わたしたちは皆、この方(イエス・キリスト)の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた」という部分です。わたしたちはこのことをどれだけ意識しているでしょうか。案外当たり前のように受け流していることが多いかもしれません(これはわたしの反省でもありますが)。
 
 今日は一年の終わりの日。慌ただしい年末でありますが、少しでも時間を取って一年を振り返り、イエス様から受けた恵みを振り返り、意識できればと思います。そしてまた、新しい一年に希望を持って向かっていけるように合わせて祈りたいものです。
 
fsdb

2013/01/01  神の母聖マリア 祭 民数記 6/2-27 ガラテヤ 4/4-7 ルカ 2/16-21
 
 羊飼いたちは、「飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子」を探し当て、乳飲み子を見、その「幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせ」る。イエスを目の前にして、これを聞いた人たちの反応はさまざま。「不思議に思った」り、「神をあがめ、賛美しながら帰って」いったり・・・。そんな中で、マリアはこの「出来事をすべて心に納め」、「思い巡らして」いた。
 
 イエスの誕生をお祭として祝って終わりというのではなく、心にとどめて、味わっていく。この世に来てくださったイエスと対話していく。この姿勢がないと私たちは、いつまでたっても、何をやっても、イエスとの関係を深めていくことができない。内的に深まっていくことはできない。クリスマスを祝うこと、イエスの誕生、神の子の誕生を祝うことは大切。しかし、それからがもっと大切。私たちのもとに来てくださったイエスとともに歩むこと。マリアは日常の出来事のうちに神の呼びかけを聴き、神の御言葉を思い巡らす祈りの人だ。今日の福音では、羊飼いたちの話の中に神の計らいを見出している。
 
 私たちも、小さな兄弟たちの言葉の中に、また小さな人々の中に神の計らいを見出していくことが大切。人間の目から見たら小さく見えること、ちっぽけに思えること、それをおろそかにせず、そこに神様の導きを見つけていくこと、これが信仰者の態度。マリアは小さなことに忠実で、神様に信頼して歩んで行った。幼子イエスに神を見出し、神の母としての使命を生きて行った。
 
 新しい年を迎えた今、私たちは原点に立ち返る時にいる。謙虚な気持ちで、神様に信頼して歩んでいく心を新たにしていく時である。
 
Tsujiie
 

2013/01/02  聖バジリオ 聖グレゴリオ司教教会博士 記 1ヨハネ 2/22-28 ヨハネ 1/19-28
 
 「あなたは、どなたですか」とヨハネが聞かれたとき、「わたしは、????です」と即答せずに「わたしはメシアではない」と答えました。その後、いくつもの質問にNOと答え、最終的に「わたしは荒れ野で叫ぶ声である」と答えたのでした。それは、キリストの道を準備する者に徹していたことの表れではないでしょうか。
 
 わたしたちもまた、自分を見せるのではなく、キリストを伝える者になっていかなければなりません。キリストが人間の姿でこの世に生まれ、わたしたちに救いの道を開いてくださったように、わたしたちもまた、人々の中にあって、わたしたちを通して人々に救いの道を準備する必要があると思います。
 
nobysdb
 

2013/01/03  降誕節木曜日 1ヨハネ 2/29-3/6 ヨハネ 1/29-34
 
 新年を迎え、信仰年を歩んでいるわたし達に求められることは、日々の生活の中で、イエス様と出会い、彼に奉仕することで、信仰を強め、深めることです。マザーテレサはそのことを称して「2つのご聖体拝領」と言われた。ごミサで出会い、奉仕する人々の中に出会う体験を生きることによって「信仰・希望・愛」を深められた。
 
 今日の福音書は、群衆に紛れ、ひっそり、こっそり訪れたイエス様を、目ざとく見つけ、弟子たちに紹介する(信仰告白をする)洗礼者ヨハネの姿を述べる。ヨハネははっきり断言する。「神の子羊だ!」つまり「彼こそがメシア、救い主だ!」と。弟子たちの二人が後を追い、一晩イエス様とともの過ごす体験をした、と続く。
 
 イエス様との出会いは強烈で、生涯忘れることのできない出来事になったと、ひとりの弟子は書く、しかも時間まで。彼はイエス様に出会い、イエス様を紹介するものとなった、洗礼者ヨハネのように。わたしにもイエス様に出会い、紹介できる恵みを!!
 
 国松神父

2013/01/04  降誕節金曜日 1ヨハネ 3/7-10  ヨハネ 1/35-42
 
 「来て、見なさい」
 
 今日の福音の中でナタナエルは「イスラエルから何か良いものが出るだろうか」とフィリポの話に対して感じた疑問を率直に口にします。それに対してフィリポは「来て、見なさい」とナタナエルを招きます。
 
 願わくは私たちもまず自分がイエス・キリストに出会い、今度はそれをフィリポのように言葉だけでなく、実際に「来て、見なさい」と言えるようになりたいものです。今の日本を見ると、政治家の選挙公約に代表されるように言葉が重みを持たなくなってきています。多くの人からこんなつぶやきが聞こえてきます。「こんな世の中から何か良いものが出るだろうか・・・」そんな中で、私が自分の弱さや苦しみも含めてキリストに自らをゆだねて前向きに生きようとする姿を通して、私と出会う人々にイエスを示していけますように。
 
 ぼすこ

2013/01/05  降誕節土曜日 1ヨハネ 3/1-21 ヨハネ 1/43-51
 
 「ナザレから何か良いものが出るだろうか」は、ナタナエルが学んできたこと、人から伝え聞いたこと、つまり知識を総動員して考えた結果導き出された回答です。誠実に、そして真剣に考えた結果ではありますが、それでも、そこには彼自身の体験というものが含まれていません。対して、フィリッポの返答は至ってシンプル。「じゃあ行って、自分で確かめてみな!」同様の図式は、キリストの降誕物語の中にも見出だすことができます。キリストを探し当てることができたのは、自らそれを探しに出かけた者たちだけ。他人任せにした者・知識だけを拠り所とした者は、何も見出すことができない。
 
 「神の存在を証明する義務は、存在すると主張する側にある」というのが、論理的に物事を考える人々の共通理解ですが、私たちは自分の体験を誰かに肩代わりしてもらうことができません。私たちにできるのは「私は神を体験した」と主張することまで。…ただ、やり方次第では「私も…」と望む人々が増えるのではないでしょうか。
 
eno

2013/01/07  公現後の月曜日 1ヨハネ 3/22-4/6 マタイ 4./12-17,23-25
 
 「神の掟を守る人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます」。
 
 今日の第一朗読『ヨハネの手紙』の一節です。神の掟を守る人は、互いに愛し合うことを行います。それは神の子イエス・キリストの名を信じていることに基づき、イエスが命じられた「互いに愛し合いなさい」という大事な掟を守るよう招かれているからです。
 
 今日の福音『マタイによる福音書』では、かつて預言者イザヤが語られていたことが実現します。暗闇に光が差し込むように、イエスの登場によって人々に光がもたらされ、それまで包んでいた闇が追い払われています。私たちの生活もイエスによって照らしていただき、愛を行う日々へと変えられますように。
 
TH

2013/01/08  公現後の火曜日 1ヨハネ 4/7-10 マルコ 6/34-44
 
  “イエスは大勢の群衆を見て、飼い主のない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた”。教師であるキリスト、救い主であるキリストの行動の根源には憐れみがある。この憐れみこそ愛を示し、信仰を呼び起こすキリストの奇跡を起こさせる。生きるために、その当時の人が一番必要としていたパンを増やす奇跡である。永遠の命のパンを与える前に、キリストが日毎の糧であるパンをお与えになる。ところが、この日毎の糧を十分いただけない人が、世界中、今日でも、何億人もいるだろう。人が多すぎ、資源が不足し始めたという誤った情報も聞かされるが、戦争や軍備のために世界で使われる金額が、一秒400万円だと報告を拝見した。それは、一時間140億円、一日3456億円という計算になる。
 
 ユートピアではあろうが、人間同士、諸国同士の憐れみが増し、1週間でも戦争や紛争を止め、その金を食料に当てるとすれば、全世界の人々が満腹することが出来、残りを集めると、たぶん、12万の籠にいっぱいになるかも知れない。
 
Achille Loro Piana

2013/01/09  公現後の水曜日 1ヨハネ 4/11-18 マルコ 6/45-52
 
 今日は第一朗読のヨハネの手紙で「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します」と聞きました。
 
 福音でこれは具体的に確かなものとなります。逆風の中漕ぎ悩み、湖上を歩くイエスを幽霊だと思った弟子たちに、イエスは「安心しなさい。わたしだ。恐れることがない」と言われます。愛である神が人となった方イエスが共におられるとき、人は恐れを締め出します。 
 
YS

2013/01/10  公現後の木曜日 1ヨハネ 4/19-5/4 ルカ 4/14-22a
 
 イエスは“霊”の力に満ちてガリラヤに戻ったとあります。“霊”の力がどのように人々に伝わるのかを福音書で確認すると、ことば、つまりイエスの話されることばによって人々に“霊”が与えられています。“霊”を与えられた人々は感動し、イエスをほめたたえ、驚きを表すなど様々な反応があったことがわかります。
 
 私たちも一人ひとり同じ“霊”が与えられています。けれども毎日の生活において、私たちのことばや行為に“霊”のはたらきが現れているようには見えません。しかし、ときどき私たちは自分でも気づかずに誰かに“霊”のはたらきを伝えていることがあります。それはある人から突然、感謝されたときに、「そんなことをしただろうか」「そんなはなしをこの人にしただろうか」と感謝されること自体を覚えていないことがあります。これは私の意思ではなく、私を通して神がこの人にはたらきかけたのです。私たちは私たちが思いもよらない方法で“霊”のはたらきを伝えていることがあります。だからこそ私たちは神としっかりとつながっていることができるように心身を整えておく必要があるのではないでしょうか。神のことを思い出す時間、祈りを大切にすることを忘れないようにしたいと思います。
 
T.K
 

2013/01/11  公現後の金曜日 1ヨハネ 5/5-13 ルカ 5/12-16
 
 「主よ、御心ならば、私を清くすることがおできになります。」
 
 私たちは色々な時に神様に祈ります。しかしその祈りとは多くの場合 「〜でありますように」とか「〜の願いがかないますように」といった お願いが多いようです。もちろん神様に信頼を持ってひたすらお願いす ることは立派な信仰のあらわれだと思います。しかし重い病気を前にして(たとえそれが自分の病気でなく、知人の病 気であっても)福音書の登場人物のように「御心ならば」を付け加えて 祈れるでしょうか。「もし治らないことが御心であるなら、それも等し く受け入れ感謝します」という覚悟を持って「御心ならば」と祈れる か、はなはだ自信がありません。
 
 「どうにか・・・」「何とか・・・」という祈りだけでなく、自分の願望から解き放たれ、神様の愛に包まれ、神様の望みと一致しながら、ど のような結果が訪れようとも「お望みなら・・・」と祈れるよう自分を 清めていきたいと思います。
 
daniel
 

2013/01/12  公現後の土曜日 1ヨハネ 5/14-21 ヨハネ 3/22-30
 
 今日の福音の中で、洗礼者ヨハネは一つの真理を証ししています。
 
 「天から与えられなければ、人は何も受けることができない。」
 
 私たちの存在自体、命も、今手にしている全てのものも。でもこの真理はあまりにも当たり前すぎて私たちが気づかないでいるか、気づいてもすぐに忘れてしまうことのひとつです。
 
 神様は私たちが願うもでも、願わないものでも、必要なものを何でも与えて下さいます。でも私たちが受け止めるべきものは、単に与えられるものではなく、何でも惜しみなく寛大に与えて下さる神様の御心です。そしてその神様のその御心に応えて生きていくことが私たちのつとめとなります。
 
 だから第1朗読にあるように、何事でも神様の御心に適うことを私たちが願うなら、神様は聞き入れて下さり、これが神様に対するわたしたちの確信となるのです。
 
mickey sdb
 
 
 
 
 
 

2013/01/14  年間第1月曜日 ヘブライ 1/1-6 マルコ 1/14-20
 
 「時は満ち・・・」はマルコによる福音書の見出しともいえることばです。見出しですから当然、福音書全体の内容が見て取れる。イエスは神の国の到来を告げ知らせるために、世に打って出たわけです。そして、その際に最初にしたこと、・・・それが「弟子をとる」ということです。
 
 なぜでしょう?いくつかの理由が挙げられるでしょうが、そのうちの一つは至極単純なことです。独りでは、神の国の何たるかを伝え切ることができないからです。「神の国は、実にあなた方の間にある」ということば、「ふたりまたは三人が私の名によって集えば、私もまたそこにいる」ということばを思い出しましょう。
 
 あなたが、主の福音を多くの人に告げたいと考えているのだとしたら、協力者・理解者の存在は極めて重要です。あなたが、神の恵みを存分に味わいたいと感じているのなら、隣の人と手を取り合うことが一番の近道です。そして、そのためには先ず、あなたの手が空でないと・・・
 
eno

2013/01/15  年間第1火曜日 ヘブライ 2/5-12 マルコ 1/21-28
 
 イエス様がいよいよ会堂で教え始められた様子をマルコは記しています。「人々はその教えに非常に驚いた。」とあります。しかし、マルコは不思議な事に、人々が驚いたというイエス様の「教え」の内容そのものについては記してはおらず、人々の反応に注目し、それを記しています。
 
 イエス様が一対どんな教えをされたのか気になるところですが、それは置いておくとして、私たちも聖書を通してイエス様の教えに触れてはいますが、その教えに対してどうのように反応しているか、時には客観的に自分自身を見つめてみては如何でしょう。イエス様の時を経ても決して色あせない「権威ある新しい教え」に触れ、どれだけの驚きを感じているでしょうか。
 
 私たち一人一人の心に生じる新鮮な驚きを深く味わい、大切にし、その驚きによる恵を「地方の隅々にまで」広めることが出来ますように。
mickey sdb

2013/01/16  年間第1水曜日 ヘブライ 2/14-18 マルコ 1/29-39
 
 聖地巡礼でカファルナウムに行くと、会堂跡の近くにペトロの家があります。家の大きさから考えても、ペトロの家は決して貧しい漁師ではなかったように思えます。
 
 ペトロは姑の病気という気がかりなことがあったのに、イエスのお伴をしていました。「神があなたがたをかえりみていて下さるのだから、自分の思いわずらいをいっさい神にゆだねるがよい」(1ペトロ5章7節)とあるように、第一のものを第一にするとき、第二、第三のものをお贈り下さるのが神様のなさり方です。
 
 ペトロが家をすて、網をすててキリストに従いましたが、イエスご自身がペトロの心配事のところに来て下さっているのです。
 
M.M.Joseph

2013/01/17  聖アントニオ修道院長 記 ヘブライ 3/7-14 マルコ 1/40-45
 
 福音はマルコから「重い皮膚病を患っている人を癒す」です。重い皮膚病と訳されているギリシャ語レプラは70人訳で、ヘブライ語のツァーラートは現代医学で言うハンセン病だけでなく、治療が困難な皮膚病全てを含みます。従ってツァーラートはハンセン病か他の皮膚病かは解りません。いずれにせよツァーラートを患う患者は律法上では不浄の者と見なされ、イスラエルの宿営に住む事は赦されず、誰かが近づいたならば、「私は汚れた者です、汚れた者です」と警告しなければなりませんでした。それ故、この患者がイエスの所へ来たのは律法違反と見られます。しかし、患者の思い切った行為と言葉は、懇願の真剣さと、イエスの力に対する信頼を現します。
 
 「深く哀れんで」の代わりに「怒って」と読む写本が在り、人間存在を損なう悪の力に対するイエスの「怒り」とも言えます。「手を差し伸べて、、、触れる」、此れは奇跡物語にしばしば見られる癒しの所作ですが、この場合律法を無視した行為でも有ります。イエスはレビ記14:2以下の指示に従って社会復帰の手順を踏む事を命じます。この命令は病気が完全に治癒した事を間接的に示しています。汚れた者としてユダヤ教社会から疎外されていたこの男はイエスから口止めされたにも関わらず、「大いにこの出来事:よき知らせを:告げ、言い広め始め」ます。「告げ」と訳されている動詞ケーリュッセインは福音宣教にも用いられている言葉で在り、この男が最初の宣教者となった事が暗示されています。
 
飯田徹
 
 
 

2013/01/18  年間第1金曜日 ヘブライ 4/1-5,11 マルコ 2/1-12
 
 今日の福音は、四人の男が、主イエスに中風の人を治してもらいたかったのですが、人が多くて、群衆に阻まれて主イエスがおられる家に入れなかった場面です。それで、四人は「イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした」ということにしました。その時のこと、主イエスは、罪を赦してもらうつもりは一つもない中風の人に、いきなり「子よ、あなたの罪は許される」とおっしゃったのです。
 
 このようなしるしを通して、主イエスは、人間でありながら、神でもあることを示して下さって、多くの人の心の中で信仰の種をまかれたのです。言葉と行いによって、主イエスは、今日、体の健康より、心の健康の方が先だと教えて下さるのではないでしょうか。
 
Achille Loro Piana
 

2013/01/19  年間第1土曜日 ヘブライ 4/12-16 マルコ 2/13-17
 
  「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」
 
 ある時、小学生の子どもたちから聞かれた。「どうして、神父してのる?」と。それに対して「うん、人一倍、罪深い人間だと思っているからだよ」と答えた。そうすると、「ふ〜ん」と口にして、子どもたちは去って行った。
 
 さて、今日のマルコ福音の箇所では収税所に座っているレビがイエスに呼ばれる。「わたしに従いなさい」と。ご存知のように徴税人は、収税所で通行と荷物に関して税を徴収していたが、それには下役が使われた。レビもそのような下役の一人だったと思われる。また通行人からの徴税額は定められていないことが多く、不当に高い税を取り立てることも出来た。さらに彼らは異教徒とも頻繁に接触したのでユダヤ人からは祭儀的には不浄な者と見做された。こうして彼らは軽蔑され、罪人扱いされたのだ。
 
 ところでイエスは何故レビを呼んだのだろうか。イエスの答えはこうである。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」この答えはあまりにも簡潔で明快であった。イエスの弟子たちを困らせようと思っていたファリサイ派の律法学者の狼狽振りを想像するには難しくないだろう。
 
 ところで、私(読者)はどうだろうか。
 @あなたがイエスの立場だったらレビを呼んだだろうか?
 Aレビを呼ばなかったとすれば何故だろうか?
 B私の周りにいる病人とは誰か?
 C私はその病人に対してどうしてきただろうか?
 
 イエスが呼んだのは収税所に座っていたレビである。ある意味でレビは罪人であった。しかし、レビはイエスに従った。イエスに従ったレビは、罪人の道を歩み続けることなくそれを絶ち、福音に生きる者となった。イエスは誰でも招いておられる。ただし、人がその招きに敏感であるかそうでないかがその招きを活かすか無駄にするかの境目である。
 
 先に述べた子どもたちへの答え、「うん、・・・」という言葉の裏には主イエスの招きに与ること無しには自分の人生はあり得ないという信仰の表現である。
 
 「主イエスよ、罪人の私をあわれんでください。」
 
濱口秀昭sdb

2013/01/21  聖アグネスおとめ殉教者 記 ヘブライ 5/1-10 マルコ 2/18-22
 
 イエスの教えは、常に「新しい」。どんな時にそれが伝えられても、いつでも新鮮なメッセージを運んでくれるのです。しかし、もし私たちが古い人間でいるならば、そのメッセージは私たちに受け入れられません。勝手な解釈をして受け入れたつもりになるか、何も感じないか、居心地が悪くなるか、です。わたしたちがいつも新しい革袋でいることができますように。
 
Latta

2013/01/22  年間第2火曜日 ヘブライ 6/10-20 マルコ 2/23-28
 
 安息日に守らなければならない規則がたくさんあります。なぜでしょう。今日、わたしたちは主イエスが語る言葉に耳を傾けています。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」と。
 
 いつだったか「正しいことも愛をもって行いなさい」という言葉が心に響きました。正しいことを規則通りに、決まっていることとして行うだけでなく、愛をもってというのが大切でしょう。わたしたちは主イエスの言葉に耳を傾けます。安息日の主でありますから。
 
TH

2013/01/23  年間第2水曜日 ヘブライ 7/1-3,15-17 マルコ 3/1-6
 
 イエスは、手の萎えた障害者をいやされるに際して、まず群衆の「真中に立ちなさい」と言われました(マルコ3.3)。
 
 病気や身体の障害は罪の罰だと考えられていた当時のユダヤ社会では、手の萎えたこの人はおそらく一度も人々の真ん中に立ったことはないでしょう。いつも人々の後ろに隠れたり、家に閉じこもっていたことでしょう。みじめな自分、軽蔑されるのが当たり前の自分、人並に幸福な生活を営む資格のない自分だと思っていたことでしょう。
 
 その人に対してイエスは「真中に立ちなさい」と言われたのです。あなたも神に愛されている人間です。あなたもかけがえのない人間です。あなたも幸福な生活を営む権利を持っている人間だと宣言されたのです。
 
 人間を民族や境遇によって差別し掟や習慣を最優先していた当時の指導者たちに鋭い一撃を加えたイエスの毅然とした態度でした。
 
 こうしてイエスを殺そうとする機運が指導者たちの間で高まっていったのでした。
坂梨四郎
 

2013/01/24  聖フランシスコ・サレジオ司教教会博士 記 ヘブライ 7/25-8/6 マルコ 3/7-12
 
 イエスの召命(の自覚)にもし、プロセスがあるとすると、一体どんなものだったのでしょうか?理想の自分と現実の自分の間に罪に関わる葛藤はなかったものの、「神の子」と呼ばれるという自己超越の段階へ一足飛びで向かうことに待ったをかけられる様子が今日の福音で述べられています。
 
 神の子として生きることがイエスの召命とするなら、彼はそのプロセスを自らの成熟の道程ととらえていたのかもしれません。自らの類ない召命の完成にむけて、癒しや交わりそして神からの良き知らせを宣言するといった毎日の積み重ねを大事にされた姿が伝わってきます。
 
 イエスはまだまだ、他の町や村に行かなくてはいけないのです。まだまだ多くの人に神の愛を伝えなくてはいけないのです。イエス自身の成功や挫折もそこには織り交ざっていることでしょう。喜びも悲しみも、心地よさも疲れもひっくるめて、イエスは全部受け入れることを良しとしました。自己超越の体験のまえに十字架があって、その道を今日も歩まれるイエスにわたしの小さな歩みを重ねたいと思います。きっと力がいただけると信じながら。
              
 若望
 

2013/01/25  聖パウロの回心 祝 使徒言行録 22/3-16 or 9/1-22 マルコ 16/15-18
 
 「何かがきっかけになって急に物事の真相、本質がわかること」ということわざのもとになったのが今日読まれるパウロの回心の物語。パウロは文字通り、光輝くイエスの出現によって見えなくなっていた状態から、アナニアの言葉によって目が見えるようになった。しかし「見えるようになった」ことの本当の意味は違うところにあることを私たちは知っている。
 
 回心とは心の方向転換。私たちも本当のものと出会い、真実なものに気づくとき、目からウロコが落ちるように心にふさがれていた蓋のようなものが取り払われてその真実なものに開かれていく。本当の方、イエスに出会い、目が開かれ、主に向かっていったパウロにならい、私たちも今日、心を開き神に向かっていきたい。
 
missin

2013/01/26  聖テモテ 聖テトス司教 記 2テモテ 1/1-8 or テトス 1/1-5 ルカ 10/1-9
 
 当時の宣教の方法が描かれています。まさに「オオカミの群れの中に小羊を送り込むような」状況だったのです。それでも喜びを与える知らせ(救いのための教え)を渇望している人々の所に派遣されていきました。
 
 今日お祝いしている聖テモテと聖テトスは使徒パウロの弟子ですが、イエスの初期の弟子たちのように派遣され、宣教活動に従事しました。
 
 私たちも洗礼と堅信という水と聖霊による洗礼を受け、イエス様より宣教するよう使命を受けた信徒の一人です。信仰年にあたり、その意識を強く持って家庭の中で、地域社会の中で、信仰の証人として歩みたいと思います。
 
Pooh

2013/01/28  聖トマス・アクィナス司祭教会博士 記  ヘブライ 9/15,24-28 マルコ 3/22-30
 
 直前のマルコ3章21節には、「あの男は気が変になっている」と言われているので、身内の人たちがイエスを取り押さえに来た、と記されています。律法学者たちも、イエスは「ベルゼブルに取りつかれている」、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言います。そのような人々に対し、イエスは「聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」とおっしゃいます。
 
 私たちが信仰を得、イエス・キリストはメシアであると宣言することができるのは、まさに神からの霊の働きによるものです。極端に言うと、私たちの信仰生活のすべてを支え導いているのは、神からの霊です。それで私たちの生活を、“霊的生活”と呼ぶのです。
 
kita
 

2013/01/29  年間第3火曜日 ヘブライ 10/1-1 マルコ 3/31-35
 
 イエスは「神のみ心を行う人こそ、私の兄弟、姉妹、また母である」と言っています。イエスは人間の血縁関係を否定しているわけではありません。ただ、自分により近い者とは、神のみ心を行うものであると言っています。イエスを遣わされた父なる神のみ旨を悟り、それを忠実に実行するときに、私たちはイエスに近いものとなることができるのです。
 
 主の祈りの中に「み心が天に行われるように地にも行われますように」という言葉がありますが、この言葉をしっかりと心にとめたいと思います。父なる神は私たちを限りなく愛し、私たちをご自分のもとに引きよせ、永遠の喜びを与えようとされています。このような神のみ心を心にとめ、私たちの人生の歩みがよりいっそう神のみ心にかなうものとなりますように祈り、また自らも努めたいと思います。
 
鈴木英史

2013/01/30  年間第3水曜日 ヘブライ 10/11-18 マルコ 4/1-20
 
 今日の「種蒔く人」の例えは、種をまくイエス様の寛大さと、まかれる種の「豊かな生命力」を最初に頭に浮かべることでしょう。
 
 今日はそのことよりも、種が蒔かれる土地・私達の心について考えましょう。種が発芽するためには「太陽の光の温かさと雨」が必要です。神様の種に対する“感謝”と“行動に結び付ける積極性”を私達の心がもつていることが大切です。神様は人間の心に関しては、開けてもらえなければ入られないのです。神様の種に対する温かな配慮と、水をくんでくるような細やかな配慮を、今日、私達は神様にお約束したいですね。   
 
T・Paolin

2013/01/31  聖ヨハネ・ボスコ司祭 記 ヘブライ 10/19-25 マルコ 4/21-25
 
 「何を聞いているかに注意しなさい。」聖書という書物は不思議なものです。なぜなら、この書は人間の言葉で書かれていますが、同時にそれは神の言葉であると実感しているからです。聖書は聖霊の霊感によって書かれた書物です。ですから、聖書には神のメッセージ・「神のことば」がこめられています。神の言葉として私たちは聖書を伝えてきました。聖書は神の人間に対する語りかけ、しかも、無限の愛による語りかけを書き記したものです。人に語りかけると言うのは、話しかける相手に対する善意の表れです。
 
 信仰は聴くことから始まるものです。「聞く耳のある者は」イエスの言葉を聞いて全てを捨ててイエスに従ったのです。その言葉が生き生きと響きました。彼らの心に奥深く残りました。イエスの言葉と行動は彼らの人生を造り変えました。最後に、彼らは主よ、「あなたの言葉は真実です。」あなたのみ永遠のいのちの言葉を持っておられるのです。
 
 聖書を聞くには、たくさんの方法があります。歴史の記録として聞く、文学として聞く、昔の人々の知恵として聞く、神秘的な英雄伝説として聞くなどです。一番大事なのは信仰を持って聴く真心が重要なのです。それによって神の言葉は確実に実を結びます。神に心を委ね、従順な思いを持って言葉を聴くとき、神の栄光へと導かれます。
 
Fr.Tadeo

2013/02/01  年間第3金曜日 ヘブライ 10/32-39 マルコ 4/26-34
 
  神の国は人間の力など必要ないくらいに、神の恵みのうちに実現する。神の国は人間の目から見れば、取るに足らない小さなものかもしれないが、神の思いのうちに大きくなる。 
 
 さて、私たち人間のできることは何なのか?私たちの存在は神の国に必要なのだろうか?私たちは神の国の実現に参加するように招かれている。でも、私たちの仕事の大きさや他の人からの評価は神の国の実現には何の関係もないことが分かる。大切なのは、イエスの話に耳を傾けながら、神の恵みの大きさと神の思いに自分をゆだねていくことかもしれない。
 
Juancito

2013/02/02  主の奉献 祝 マラキ 3/1-4 or ヘブライ 2/14-8 ルカ 2/22-40
 
 長いほうの朗読では、イエスの両親が神殿でいけにえを献げるとき、シメオンに続き女預言者アンナが登場します。このアンナについての記述をわたしは気に入っています。
 
 「彼女は神殿を離れず、昼も夜も、断食と祈りのうちに神に仕えていた」とあります。神の元から決して離れなかった、神を賛美することを決して止めなかった彼女を待っていたのは救い主との出会いです。この出会いまでにどれだけの時を要したのでしょう? 若いときに嫁いでから7年間夫とともに暮らし、その後84歳になるまで!
 
 神との出会いを決してあきらめては行けませんね。しぶとく、根気強く求め続けましょう!
 
Pat

2013/02/04  年間第4月曜日 ヘブライ 11/32-40 マルコ 5/1-20
 
 普段の生活で社会常識を優先していると、実はイエスの生き方に反していたり、今日の福音のようにイエスに去ってもらいたいと思っていることがあるのではないでしょうか。
 
 ゲラサ人の地方でイエスは汚れた霊に取りつかれた人から霊を追い出すのですが、人々は正気になったレギオンにとりつかれていた人を見て「恐ろしく」なります。人々は彼に起こったことと一連の出来事を聞いてもイエスのことが受け入れることができなかったので、イエスを去らせようとしたのだと思います。イエスの行いは人を救うすばらしい事であったにもかかわらず、おそらく人々の常識を越えてしまった出来事であったので受け入れることができなかったのでしょう。
 
 わたしたちは人間であり、人間社会で生きていくことは必須です。ただ今日の福音のように、イエスと社会通念の間に隔たりがあるときはどうしたらよいのでしょうか。わたしたちはキリスト者としてイエスを模範として、神様の望まれる道を歩むことができるように祈り、求めていきたいものです。
 
fsdb

2013/02/05  日本26聖人殉教者 祝 ガラテヤ 2/19-20 マタイ 28/16-20
 
イエスが復活したのちに、11人の弟子たちはイエスの指示にしたがってガリラヤへ行った。しかし、彼らの中には、まだイエスの復活を疑っている者もいた。そうした状況においてイエスがとった行動に注意したい。
 
 「イエスは近寄って来て…」彼らに語る。彼らの疑いを晴らし、彼らを信じる者とする。しかも、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」と力強く語り、彼らを派遣する。ただ単に彼らだけを遣わすのではなく「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と、イエスは弟子たちの宣教の旅に同伴してくださる。
 
 このイエスの自ら近づくいつも共にいるという言葉を信じてわたしたちもイエスに近づくとともに、このことを模範として自らも生きるようにしたい。
 
秀昭

2013/02/06  聖アガタおとめ殉教者 来 ヘブライ 12/4-7,11-15 マルコ 6/1-6
 
 今日の福音に描かれているのは、イエスの真の姿を見ることのできない故郷の人たちです。彼らはイエスの言葉を直接聞いていますし、そのわざも見ています。それでもそこに神のわざを見ることができなかったのです。それは目が曇っていたから、別な言い方をすれば、すごく汚れたメガネをかけているような状態でイエスを見ていたからです。イエスを直接見ていた彼らがそこに神様を見ることができなかったということは、直接見ていない私たちは、よほど意識して自分の汚れたメガネを外さなければ、神を見ることも信じることもできないと思います。
 
 偏見、先入観、固定観念、自分の経験を絶対視すること・・・、これらははじめから相手を裁いてしまっているめがねです。それらのめがねを取り外さない限り、私たちはイエスと出会うことができません。逆に言えば、目の前の人と真摯に関わり、相手の身になって思いやりの心を持って接する時、私たちはそこでイエスに出会うことができるのです。こうして私たちは、自分の汚れたメガネをはずしていけばいくほど、イエスの真の姿が見えてきます。
 
Tsujiie

2013/02/07  年間第4木曜日 ヘブライ 12/18-19,21-24 マルコ 6/7-13
 
 今日の福音は、使徒たちの宣教を取り上げている。イエス様に代わって、上の句の到来、救いのメッセージを伝えるため、二人ずつ遣わされる。
 
 証言は2〜3人の証人の言葉に裏打ちされて初めて効力を持つとされていたので、イエス様に代わって遣わされた使徒たちの活動に権威を与える。
 
 派遣される者は、質素に謙虚に喜びの便りを伝え、ふさわしい生活を営むよう回心を呼び掛ける。
 
 この使徒たちに託された使命が、今日、私たちににも現実のものとなる。周りの人に、「イエス様が救い主である」ことを伝える生活が始まることを心に留めよう!!
 
国松神父

2013/02/08  年間第4金曜日 ヘブライ 13/1-8 マルコ 6/14-29
 
 今日の福音書でヘロデは洗礼者ヨハネの教えに喜んでいながら、ヘロディアの娘に「欲しいものがあれば何でも言いなさい」と皆の前で言ってしまった以上、「洗礼者ヨハネの首を頂きたい」と頼まれて自分の言ったことを客の手前、撤回することができずにヨハネ殺害を命じてしまいます。
 
 「なんて残酷なことを!」と非難しがちな私たちにも実は同じようなことがないでしょうか?自分のメンツを保つために自分の良心に反することをしてしまった経験が果たしてないと言い切れるでしょうか?この「客の手前」というひと言に人間の弱さ、脆さがよく表現されていると思います。
 
 そんな弱い私たちの状態をよく理解して全面的にゆるして下さったのが、主イエスの十字架の姿ではないでしょうか。そこには人間のメンツ、強がった仮面を完全にはぎとられた真の人間の姿があります。
 
ぼすこ

2013/02/09  年間第4土曜日 ヘブライ 13/15-17,20-21 マルコ 6/30-34
 
 キリストを伝える者として大切なことを忘れていたのではないか、と思わせる記述が今日の福音の冒頭にありました。「自分の行ったこと、教えたことを残らずイエスに報告する」という基本中の基本ともいえることです。一つの仕事を終え、一つ神について話し終えると、「次のテーマはどのように伝えようか」ということに意識が向いてしまい、終わった勤めに関しては、感謝こそすれ「残らず伝える」ということが疎かになっていました。これは、私が神父だから求められている基本ではなく、初めに述べたように「キリストを伝える者」すべて、つまりあなたにも求められている事なのです。
 
 キリスト者として一日を振り返るとき、自分の行ったこと・教えたことを残らず報告するようにしてみましょう。(…まず私が頑張ります。) もし報告することが無かったら、そのこと自体を報告し、反省する必要があるかも知れませんね。
 
eno

2013/02/11  年間第5月曜日 創世記 1/1-19 マルコ 6/53-56
 
 イエスの活動の様子が伝えられています。その地方の人々が走り回り、イエスのもとにかけ寄っていること、また人々がいやされていることがわかります。このように活動に人気があり、だれもが受け入れやすい時の報告がここにありますが、その後のイエスのまわりに起こるできごとはどうでしょう。
 
 受け入れることができないと、その心が離れていく様子が報告されます。私たちは聖書をとおして、教会というつながりの中でイエスについていこうとしています。どうぞ、「神がともにおられる」というメッセージを心に受け止め、目にするもの、耳にするものの中からイエスの呼びかけに応えていくことができますよう、祈りをそえて過ごしてまいりましょう。
 
TH

2013/02/12  年間第5火曜日 創世記 1/20-2/4a マルコ 7/1-13
 
 「あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている」
 
 当時のユダヤ人たちは食事の前に必ず手を洗っていました。それもある人たちはこれ見よがしに腕の上の方まで洗っていたようです。手を洗うことそのものはいいのですが、そのことが神様を敬っている印だと思い込んでしまっていたようです。イエスさまはそのような外部的な行為よりも心の持ちようを言っているのです。神を信じ、神の掟を忠実に守ることがより大切だと言われたのです。 
 
RSDB

2013/02/13  灰の水曜日 ヨエル 2/12-18 2コリント 5/20-6/2 マタイ 6/1-6,16-18
 
 灰の水曜日です。人間存在の根源的な真理は二つだと思います。一つは「塵から出て塵に帰る」存在だということです。どんなに健康な人でも、仕事に成功して地位や財産を築いた人でも、やがて塵に帰る存在なのです。はかない存在です。もろい存在です。健康も才能も地位も財産も、いつかすべて失われていく一時的ではかないものです。
 
 人間存在の第二の真理は、「神から出て、神に帰る」存在だということです。「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです」(ロマ11.36)。「神から出て、神に向かう」存在だという自覚から、喜び、勇気、希望、愛、不滅の価値への憧れなど素晴らしい心が生じてくるのです。
 
 四旬節の始まりです。「塵から出て、塵に帰る」存在であること、「神から出て、神に帰る」存在であること、この二つの真理を黙想しながら回心を心がけ有意義に過ごしましょう。
 
 sakanashi sdb
 

2013/02/14  灰の式後の木曜日 申命記 30/15-20 ルカ 9/22-25
 
 イエス様は「私の十字架」ではなく「自分(あなた)の十字架」を担いなさいと言われます。
 
 「自分の十字架」とは何でしょうか?縦と横に組まれた十字架を見つめて考えていると、あるものが浮かんできました。それは「人間関係」。生きている以上、人は誰でもこの縦横の人のつながり、十字架の中で生きていきます。決していい加減にすべきものではなく、しっかりと受け止めるべきものであり、自分のことだけを考えると、バランスを崩して歪んでしまう十字架です。支えあって出来るもので、この関係の中に神はおられるのです。この十字架を「自分の十字架」としてしっかりと背負って私たちは生きていくのだと考えられます。
 
 背負っていく「自分の十字架」とは何か?四旬節の始まりにあたり、今一度考えて見ましょう。
 
mickey sdb
 

2013/02/15  灰の式後の金曜日 イザヤ 58/1-9a マタイ 9/14-15
 
 ファリサイ派の人々たちにとって断食するということは律法を守ることである。彼らは律法を守ることを何よりも大切にしていた。それによって救いがもたらされると考えていたからだ。そして律法を守れない人を「罪人」として軽蔑していた。無数の貧しい人々は生きていくことで必死で、律法を十分に守れなかった。それで彼らは、軽蔑され、差別されていた。ファリサイ派の律法主義、断食は、貧しく苦しい状況に置かれている人々をますます苦しめていた。
 
 これに比べて、イエスの弟子たちの断食は、貧しい民衆の苦しみに連帯する。彼らの苦しみを共に苦しむ。私たちキリスト者たちの断食、犠牲は、神の愛そのものである十字架上のイエスと一つになるとなって、貧しい民衆の苦しみに連帯するということだ。
 
Tsujiie
 

2013/02/16  灰の式後の土曜日 イザヤ 58/9b-14 ルカ 5/27-32
 
 お医者さんは、病人の治療を行う術を知っていますが、患者さんが治療を求めなければ治せません。患者さんが治療を求めてきても、頭が痛い、お腹が痛いなど、症状を話さないなら治しようがありません。
 
 イエス様は罪人を招き救いをもたらすために来られました。しかしイエス様が罪人を招かれても、その罪人が来なければ、その人に救いをもたらすことはできません。自分は正しい者と思い込んでしまっているファリサイ派の人々や律法学者のように、悔い改める心がなければ、その人の罪をゆるすことも癒すことも出来ません。
 
 イエス様のもとに近づく自分自身はどうでしょうか。イエス様は待っておられるかもしれませんね。
 
mickey sdb
 
 

2013/02/18  四旬節第1月曜日 レビ 19/1-2,11-18 マタイ 25/31-46
 
 今日の福音は、キリスト者にとって、いや、キリスト者だけでなく、すべての人にとって、他者、特に弱い立場の方をどのように見、そして関わるかが問われている部分だ。童話「靴屋のマルチン」を思い出す人は多いだろう。マルチンに見習うべきは、その眼差し、そして他者を差別しないところだ。マルチンは他者にキリストを見、そしてキリストのようにふるまった。人間の尊厳という。その尊厳は神から来る。一人ひとりの中に王の中の王であるキリストがいる。王を前にして私たちはどうふるまうだろうか?
 
YS
 

2013/02/19  四旬節第1火曜日 イザヤ 55/10-11 マタイ 6/7-15
 
 四旬節にいる今、この「主の祈り」の箇所を読むとき、特に「赦し」ということに注目したい。気がつくのは、私の赦しが神様の赦しの条件のように書かれていること。しかし、本当のところは、神様が先に赦してくれたから私達は人を赦し、自分を赦すことができる。子供がけんかした友達を「いいよ」と言って赦すことができるのは、自分の親が、たとえけんかしたことを怒ったとしても、絶対に赦してくれることを知っているから。「主の祈り」を唱えながら、赦されている自分に気付かせてくれるように願いたい。  
KAUS

2013/02/20  四旬節第1水曜日 ヨナ 3/1-10 ルカ 11/29-32
 
ヨナ書は旧約聖書の中で最も短い書の一つです。ヨナは神様から邪悪な人々が住んでいるニネヴェに派遣されることを嫌がりました。ヨナが嫌々ながら説教すると、ニネヴェの人々はヨナがあきれるほど、また腹をたてるほど素直に神の言葉を聞いて、悔い改めてしまいました。
 
 今日の福音でイエズス様は、「あなた方をさばくのは、ヨナだ」とは言われません。「ニネヴェの人である」と言われます。邪悪と言われていたニネヴェの人々の方が、あなたがたよりも澄んだ目をもっている。そしてごらんなさい。そのヨナにはるかに勝る者、わたしがここにいるではないか。どうして見えないのか。どうして聞こえないのか。
 
 主イエスがどんなに深い歎きの中で、この言葉を語り、しかも、招いてやまなかったということを、特に四旬節中、思い起こしましょう。
 
M.M.Joseph
 

2013/02/21  四旬節第1木曜日 エステル C/12,14-16,23-25 マタイ 7/7-12
 
 福音はマタイから「求めなさい」と言う段落です。
 
 ルカ福音書における並行箇所は「主の祈り」に始まる文脈に在り、「求めなさい」「探しなさい」「門を叩きなさい」の三つの動詞は神に向かって真剣に祈願すべき事を強く勧める言葉となっています。他方マタイでは祈りの文脈から離れていますが、「求める者」は必ず聞き届けられると言う二重の約束はこの「求め」が祈りで在る事を示しています。求めなさいに対する応えは、直訳すれば受動態の「与えられるであろう」と言う未来時制ですが、此れは主語が神で在る事を間接的に示して居り、この応えも「求める」が祈りで在る事に於いて成り立ちます。
 
 しかし何を祈り求めるのか、7節には目的語が有りません。問題はこの段落の展開と山上の説教全体から理解されます。9-11節は日常的な親子の情景を例に出して、どんな親でも子には善い物を与え様とするのであるから、まして「父」である神は善い物を与える筈だと述べます。其れに続いてマタイは所謂黄金律:愛の教えを提示し、此れこそが預言者と律法:すなわち旧約聖書:神の言葉:神の御旨で在ると言います。この文脈展開に於いて「求める」対象は愛において新しく成立する人と人との関係で在り、神と人との関係です。
 
 イエスは自らの使命を「律法や預言者」を破棄するのでなく完成するのだと言い、信仰者は律法学者やファリサイ派の者以上に正しい生を送らねば成らないと教えます。それは律法学者やファリサイ派が施しているような厄介な律法解釈以上に遵守せよと言うのでなく、徹底的な愛の要求、即ち黄金律の実行に他なりません。山上の説教が5:17-20と7:12で囲まれているのはその為であり、愛に於いて律法の諸要求は克服され、かつ完成されます。「殺すな」の律法は腹を立てることさえ否定する徹底的な隣人の尊重において真に守られる、そうした人間関係の成立を「求めなさい」と勧めます。
 
飯田徹

2013/02/22  聖ペトロ使徒座 祝 1ペトロ 5/1-4
 
 今日の福音は、中学生の頃にラテン語で、高校生の頃にはギリシャ語で暗記させられていたぐらい重要な聖書の個所です。
 
 「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」という主イエスの二つ目の質問に、ペトロは「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えました。正解することを通して、ペトロは主イエスをメシア、すなわち救い主として認め、心から信じていることを示すのです。そこでペトロの信仰が報いられます。
 
ラテン語で“ペトラ”は“岩”という意味ですので、その時の主イエスの言葉をわかりやすい日本語で“あなたは岩男。わたしはこの岩の上にわたしの教会をたてる。”と言うことができます。
 
 この言葉の解釈によって、キリスト者であっても、カトリックかプロテスタントか分かれるところでもあります。私たちは、ペトロとその後任である教皇が地上のキリストの代理者であると信じています。
 
Achille Loro Piana

2013/02/23  四旬節第1土曜日 申命記 2616-19 マタイ 5/43-48
 
今日の福音書のメッセージは「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」 ということです。このメッセージを読む時、ちょっと変ではないかと思われる方がいるかもしれません。これは確かに人間の基準にすれば可笑しいかもしれませんが、神様の思いに基づいて、考えすれば決してそうではありません。
 
 ヨハネの第一の手紙の中にはこのように示されています。「神は愛です。愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。」(ヨハネの手紙一4:8)ですから、愛することを知らない者は神様も知るはずがないでしょう。
 
 神の愛とはアガペの愛です。無償の愛です。神は人間を愛するために無から、造られたものです。人間が土・塵から創造されたと創世記(1:6−7)に書かれています。自然から見れば、塵から創造られた人間は価値がないかもしれませんが、神から見れば、人間は大切なものであり、価値あるものとして創造されています。その価値のある理由とは、人間は神から作られ、命を授けられることです。そして、もう一つ大事なことは人間が神ご自身に似せて、神にかたどって創造されたということです。ですから、私たちがこの地上におられることは決して偶然な出来事ではありません。神の愛による出来事です。
 
 愛から創造されている私たちは互いに愛し合うべきではないでしょうか。互いに愛することは自分を愛してくれる人だけではありません。敵や自分を迫害する者にも含められているものです。しかし、私たちの中に一人一人が隣人に愛することを実践すれば、敵、嫌な人なんて存在しないはずです。
 
アントニオ
 

2013/02/25  四旬節第2月曜日 ダニエル 9/4b-10 ルカ 6/36-38
 
 短い福音の箇所です。たくさんの言葉はいりません。イエスの命令を文字通りに受け止めたいと思います。
 
  「裁き」も「憐れみ」も「ゆるし」も抽象的なものではありません。自分の身に起こるさまざまな出来事の中でしか得られないものでしょう。「裁く経験」、「裁かれる経験」、「ゆるす経験」、「ゆるされる経験」、「憐れみを受けた経験」、「憐れみを注いだ経験」・・・。これまでの私の歩みを振り返りたいと思います。
 
  そして、一歩でもイエスの命令に近づきたいと思います。簡単なはずがありません。だから一生をかける価値があるのです。本物のゆるしに到達するために。神のゆるしに到達するために。
 
  イエスに示された人間の理不尽な仕打ちを凌駕する御父の愛、その深みを知りたい。そして私がそれを誰かに示すことができたら・・・と思います。                                         
someone

2013/02/26  四旬節第2火曜日 イザヤ 1/10,16-20 マタイ 23/1-12
 
 今日の福音は、最初から最後まで、イエスが直接私自身に向けて言われているのではないかと感じる箇所である。
 
 律法の大原則というものがある。十戒である。それは、神、神の名、神の日、神が与えられた両親に対する畏敬の念。そして、人間の生命、所有物、個性、名誉、自分自身に対する畏敬の念である。
 
 律法学者やファリサイ派の人々がこの律法の大原則を教える限りにおいては、それに従いなさいと、イエスは言われる。しかし、彼らは細かな規則を作りすぎ、宗教を耐えがたい重荷としてしまった。彼らはある意味熱心すぎるあまりに宗教の本質を見失い、横道にそれ、自分たちばかりか他の人々までも悩ませることになってしまった。
 
 宗教は人に喜びを与えるものである。宗教は人を助けるものである。宗教は人を支えるものである。さて、私たちは人々を喜ばせ、助け、支える者となっているだろうか。私たちの掟に対する謙虚さが問われている。
 
Kita

2013/02/27  四旬節第2水曜日 エレミヤ 18/18-20 マタイ 20/17-28
 
イエスはエルサレムに上る真の意味を弟子たちに語り聞かせますが、後の表現から弟子たちは理解していなかったようです。しかし、ゼベダイの息子たちの母は、直感的に最期の決戦の時が近づいたことを推察して、イエスに自分の息子のことを頼みました。この願いは、「二人の兄弟のことで腹を立てた。」という表現から分かるように、イエスの弟子であれば、誰もが(私たちも含めて)抱く望みでした。ただ、イエスの考えと弟子たちの考えとの間に大きな隔たりがありました。すべてイエスから来ていることで、イエスが決めることだと思っています。しかし、イエスは何回となく、ご自分が天の父から派遣された者である事を伝えています。世の終わりの決済も天の父が決めることだということをここで、もう一度伝え、世の価値観でものを見ないように勧めています。特に、皆から評価されたいならば、権力を振り回すのではなく、「私が生きたように」仕える者に、そしてみんなの僕(しもべ)のようになることを勧めています。
 
 四旬節にあたり、自分の生活を振り返り、神のしもべとして歩んでいるかを点検しましょう。
 
 
POOH
 

2013/02/28  四旬節第2木曜日 エレミヤ 17/5-10 ルカ 16/19-31
 
 ある人から以前、こんな話しを伺った事があります。「私も大いなる奇跡を目の当たりにしたら回心するかもしれない」と。確かに、人間の力を遥かに超えた大きな力に、人間は驚嘆するものです。確かに驚嘆はしますが、その大いなる出来事が直接的に、宗教的かつイエスが望む回心に結びつくかどうかは非常に怪しいものです。それを象徴するかのように今日の「金持ちとラザロ」のたとえ話は興味深い記述をします。
 
金持ちは「もし、死んだ者の誰かが兄弟のところに行ってやれば悔い改めるでしょう」と、まさに超常現象を通じての回心の可能性を訴えます。しかし「もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言う事を聞き入れはしないだろう」と。
モーセと預言者が意味するのは「聖書のみことば」です。つまり神のことばを聞き、それを実践しないものは、例え大きな奇跡や超常現象が起こっても何一つ変わらないと。つまり、はっきり「無駄だ!」と語ります。人間を根本から変えて、回心に導くのは聖書のことばです。それゆえに「(私たち)には、モーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい」を肝に銘じなければいけないでしょう。
 
私たちが真に聖書のことばに耳を傾けた時、自分の目の前にいるラザロに何をしなければいけないのかが、自ずと見えてくるものなのです。
FR.NAO
 

2013/03/01  四旬節第2金曜日 創世記 373-4,1-13a,17b-28 マタイ 21/33-43,45-46
 
 このたとえ話は、農夫たちの残虐な姿が読む人に強烈な印象を与えます。収穫を受けるために送られた僕たちを次から次へと殺し、最後には跡取り息子までもぶどう園に連れ出して殺してしまいます。実に残酷な話です。
 
 イエスはまるで敵意とか残虐さなど、人間の醜い部分を強調しているかのように思えます。確かに人間の内面にはこのような一面が隠れているように思います。
 
 歴史を振り返って見ても、ナチスのホロコースト、ユーゴスラビアやウガンダ等の民族間の虐殺行為、あるいは宗教や思想の違い等から起こった殺戮、そして無差別に行われるテロ行為等、人間の尊厳を無視するかのような残虐な行為がいつの時代も繰り返されてきました。
 
 このような事を見るときに、「人間とはどこまで醜い存在なのか」ということを思いたくなります。しかし、それに対してイエスの人間としての姿というのは、私たちに人間の持つもう一面を示しておられます。それは愛に生きる美しい姿です。憐れみをもって、貧しい人たちや苦しむ人たちに手を差しのべられ、私たちのためにご自分の命までも惜しみなく与えられたイエスの姿は「人間とはなんて素晴らしい存在なのか」ということを思わされます。
 
 私たちも人を思いやり、命を尊重する豊かな人間性を持つために、イエスのように神を求め続けていかなければならないと思います。それは人間が最も人間らしく生きることができるのは神の力にほかならないからです。
 
NICCH

2013/03/02  四旬節第2土曜日 ミカ 7/14-15,18-20 ルカ 15/1-3,11-32
 
 キーポイントは「食事までしている」。ファリサイ派と律法学者はイエス様をある程度評価していたと思います。しかし罪人と見られる人との扱いについて、イエス様を批判しました。
 
 「食事までしている」とは、「そこまで踏み込んでいく必要があるのか」という意味になります。私達は出逢うだけで簡単に食事に行きます。イエス様の時代は、そうではありません。自分達の背丈(世界観、人生、生き方、生活)にあった人達が食事をしました。イエス様は寛容な心と愛情深い心と眼差しで話をじっくり聞いてくれる人で、一緒にいると悲しい荒れた心が癒される、その様な人だと感じたのだと思います。私達もそういう人と共にいたいと思いませんか。
 
 イエス様はファリサイ派と律法学者の言葉を受けて、「放蕩息子の喩え話」を用いて、父なる神様がこの人達をあなた方以上に大切にしているからだと話しました。神様の方に心をグッと回していこうとする人達こそ、父なる神様が喜ばれることだと説明しました。父なる神様の心に沿って歩む事が大切だと、私達に伝えています。
 
 あの罪人達のように、イエス様と共にいる良さを見出だす事ができますように。またイエス様のように神様の心に沿って歩む事ができますように。アーメン。
 
POOH

2013/03/04  四旬節第3月曜日 列王記下 5/1-15a ルカ 4/24-30
 
 サレプタのやもめの話が列王記上17章にあります。そこではエリヤに水とパンを願われたやもめが、自分と息子のためのわずかな小麦粉でパンを作り、エリヤとともに食べます。そして幾日も食べ物に事欠かなかったのですが、息子が病気になり息を引き取ります。やもめはエリヤに恨み言を言いますが、主は彼女の息子を生き返らせます。
 
 サレプタのやもめもシリア人ナアマンも、自分では理解できないことをやりなさいと言われます。初めは意味が分からず、説得されて、結局しぶしぶやってみるというような状態です。やりなさいと言われたこと自体は、大して難しいことではなく、どちらかといえば単純で簡単なことです。パンを焼くこととヨルダン川に身を浸すことです。
 
 単純で簡単なことであっても、意味が分からなければ私たちはやらないかもしれません。または途中でやめてしまうかもしれません。でも、それが神様の御旨であると知るならば、やってみようと思うでしょう。
 
 サレプタのやもめやナアマンの場合のように、神様の御旨は他の人から運ばれてくるかもしれません。いつも神様の声に耳を傾けている者でありたいと思います。
 
kita

2013/03/05  四旬節第3火曜日 ダニエル補遺・アザルヤ 2,11-20 マタイ 18/21-35
 
 ペトロが主に質問します。「兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。7回までですか。」主は答えられます。「7回どころか7の70倍までも赦しなさい。」主が語られるのは神の憐れみの姿であります。どこまでも赦しなさいというメッセージを、わたしたちも毎日の生活の中で振り返り、心を高めてすごしていきたいものです。憐れみ深いという生き方は、神がわたしたちをいかに愛してくださっているかを、強く思い起こすものです。だからこそ、兄弟に対して赦さなければなりません。毎日の生活の出来事の中に、神の大事な恵みがあります。小さいところ、目に付かないところ、そこにこそ神の豊かさがかくされています。今日出会う人びと共に、神を賛美することができますように。
 
TH

2013/03/06  四旬節第3水曜日 申命記 4/1,5-9 マタイ 5/17-19
 
 Bc175年ごろから「パリサイ派」が誕生し、律法の完全遵守を目指しました。6000人位が所属していたと云われます。10戒をもとに次々と規則や規定が作りだされ、それを守ることを重視しました。「神様に目を向ける」のが大切なのに、神様に目を向けることを助けるための規則が宗教の中心になってしまったのです。
 
 宗教は重苦しいしくなり、またどれだけ自分は真面目に規則・規定を守っているのかをこれ見よがしに見せつける虚栄的な雰囲気が出てきていました。そのことをイエス様は律法学者・パリサイ派の人達にいつも反対していました。
 
 神様は人間の心をみて下さいます。
 
T・Paolin

2013/03/07  四旬節第3木曜日 エレミヤ 7/23-28 ルカ 11/14-23
 
 聖書の中では、神が造られた天使の一部が神に背いて堕落したとされています。それが悪魔です。サタンは抽象的な存在ではありません。悪い者、神に逆らう天使の事です。「最初から殺人、・・・・偽り者・・・・、(偽りの)父」(ヨハネ8,44)であり、「全人類を惑わす者であるサタン」(黙示録12,9)とあります。サタン、と言う名前そのものが「誘惑する者」を意味します。従って、悪魔は神を憎み、それと同様に神が造られたものをも憎みます。しかし、絶対に神に勝つ事はありません。何故なら、サタンは弱い者であり、イエスは、力ある者を縛ります。悪魔は永遠のものではありません。永遠の存在は、神だけです。イエスは神の聖者であり、メシアであり、悪魔は汚れた霊だからイエスは聖霊の力を持って悪霊を追い出すのです。イエスの使命は、「悪魔を破壊する為に来られた」からです(マルコ1,24)。
 
 悪魔は何一つ創造する事ができませんから、かわりに既にあるものをゆがめ、堕落させようとします。サタンが最も良く使う、最も効果的な策略の一つは、私たちの心に疑いの種を蒔く事です。私たちに神の愛を疑わせ、愛を他の関係の内に求めさせようとするのです。
 
 ではどうすればよいのでしょうか。全面的に神の約束に希望を置く事です。神の愛を疑いたくなった時には、いつも思い出しなさい、何ものも神の愛から、私たちを引き離す事はできない(ローマ8,35-39)と。神が必要なものを与えて下さる事を疑いたくなった時は、いつも思い出しなさい、野の花や空の鳥を養われる神は、あなたに必要なものを全て与えて下さる(ルカ12,22-34)のです。神の赦しを疑いたくなった時は、いつも思い出しなさい、神は憐れみ豊かで、怒るに遅く方(エフェス2,4、詩編103,2)であるのです。主よ、あなたの優しさと憐れみを私は記憶にとどめます。悪魔の虚偽からお守りください。
 
 イエス・キリストは既に、死と復活によって悪魔に打ち勝たれました。そして、洗礼によって今私はキリストの勝利に与かっています。主キリストの愛から私を引き離す事のできるものは何一つない事を信じます。聖霊よ、深い信仰と神の約束への信頼で私を満たして、あなたのみ旨を行う事が出来るように強めて下さい。
 
Fr.Tadeusz
 

2013/03/08  四旬節第3金曜日 ホセア 14/2-10 マルコ 12/28b-34
 
 今日の福音における「あらゆる掟のうちでどれが第一か」という律法学者の質問に対してイエスは「神を愛することと隣人を愛すること」という答えで私たちに何が根本的なことか示されます。イエスの回答は複雑で理解困難なものではなく、簡潔で実際的です。神を愛することは抽象的なことではなく、具体的に私たち一人ひとりの身近にいる人を愛することから始まるということです。しかし、それは相手や自分の弱さ、自分の置かれている立場や過去のさまざまな出来事などが絡み合って近い存在であればあるほど難しいのかもしれません。だからこそ私たちは真摯に祈る(神に向かう)ことが必要なのでしょう。本気で隣人を愛そうと努力するなら祈りも本気の祈りに自然となっていくのかもしれません。  
   
hiro

2013/03/09  四旬節第3土曜日  ホセア14/2-10 ルカ 18/9-14
 
 私たちはとかく、人と比べてしまいます。あぁ、あの人はいいなぁ。なんで自分はこんなについてないんだ。でもこれはまだかわいいほうです。あぁ、あんなのでなくてよかった、とか。自分のほうがましだなぁ、とか。こんな心の動きがあったら、少し用心しましょう!もし相手のうちにある宝を見つけきらないなら、それは自分の心が曇ってしまっているからかもしれません。神様は皆をその似姿に創られました。かならず誰でも神様からいただいた宝の輝きを持っているものです。ただ、それがうまく表現できなかったり、気づいていなかったり、気づいてもらえなかったり。
 
 神様、あなたからいただいた大切な心を曇らせてしまった。神様、あの人の中にある宝を十分に見つけてあげられなかった。だから、今私たちにできるのは、あの徴税人のように、『神様、わたしを憐れんでください。』と祈ることなのだろうと思います。 
                 
若望

2013/03/11  四旬節第4月曜日 イザヤ 65/17-21 ヨハネ 4/43-54
 
 今日3月11日は東日本大震災から2年目になります。心を合わせてお祈りしましょう。
 
 私たちは日常生活の中でどうしても目から入ることに気を取られてしまいます。だから奇跡を求めます。奇跡は目に見えるもので、一番わかりやすいからです。
 
 しかし、イエスは奇跡自身に重きを置くのではなく、奇跡の奥にあるものを示されます。だから「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない。」と言われたのだと思います。
 
 今日の福音に登場する王の役人はイエスの言葉を信じて帰ります。本当はイエスに直接来てもらって目に見える形で癒して欲しかったにもかかわらずです。しかしその信仰によって彼の息子は癒されました。そのことを思うと、イエスを信じるにはイエスの言葉で十分であることがわかります。
 
 私たちはイエスの言葉をどこまで信じているのでしょうか、信じようとしているのでしょうか。この点を黙想してみたいと思います。
 
 fsdb

2013/03/12  四旬節第4火曜日 エゼキエル 47/1-9,12 ヨハネ 5/1-3a,5-16
 
 「良くなりたいか」。イエスがベトザタで病人に投げかけた質問はある意味ばかげていると言えなくもありません。「良くなりたいか、だって?当たり前じゃないか!だからここにいるんじゃないか!」と。しかし、この問いかけの深い意味に私たちは気づかなければなりません。イエスの問いかけはこの病人に限らず、私たち一人一人が本当の意味で「良いものとなる」、つまり自分の生き方を変える意志があるかどうか、という問いかけであるからです。
 
 私たちはもしかすると日常の生活の中でどうにもならない現状に妥協してしまっているのかもしれません。四旬節は私たちが変わることのできるチャンスを与えてくれる時です。本当の意味で私たちを「良いものに変える」力を持つ唯一のお方であるイエス・キリストに、心から「はい、主よ。私は良くなりたいのです。私を良いものにしてください」とより頼むことができますように。
 
missin

2013/03/13  四旬節第4水曜日 イザヤ 49/8-15 ヨハネ 5/17-30
 
 四旬節の第4週から、毎日の福音朗読はヨハネ福音書に変わる。イエスの舞台もガリラヤかエルサレムに移る。第5章は始めに38年間も病気の人の癒し、役人の息子の癒しと二つの癒しの出来事が語られ、人を死から命へと移すイエスの姿が浮き彫りになる。いよいよイエスがご自分の本当の姿を現される時が来たのである。イエスは、ご自分が父なる神と一つであることを「はっきり言っておく」という言葉を使って明言される。この「はっきり言っておく」は、イエスが特別な思いをこめて真理を告げるときに使われる言い回しで、たとえば十字架にかけられた強盗に「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われたときに、この言葉をお使いになっている。
 
 きょうの福音に「命を与える、命を受ける、永遠の命を得る、死から命へ移る」という言葉が出る。父と一体であるイエスが明かす父の愛と慈しみを受け入れ、信じる者は永遠の命を得る者であることが強調されている。道であるイエスを通って、父の家に帰る、これが人生である。
 
耿介

2013/03/14  四旬節第4木曜日 出エジプト 32/7-14 ヨハネ 5/31-47
 
 四旬節も大詰めを迎えています。出エジプト記では民を滅ぼすといきまく神様に、モーセがとりなし、神様に思いとどまらせたと記されています。
 
 ヨハネ福音書は、イエスが神様から使わされた方であることを示す証人のことが取り上げられています。旧約聖書がその証人であり、イエスのなさる業そのものが承認であることを示し、常に回心が求められています。この回心を通して、イエスの証人となることが、四旬節を行き、復活を準備する私たちに求められている。イエス様が父なる神様に私たちに回心の恵みが与えられるよう、とりなしてくださると。回心には十字架(苦しみ)が伴うことも、教えてくれます。
 
国松神父

2013/03/15  四旬節第4金曜日 知恵 2/1a,12-22 ヨハネ 7/1-2,10,25-30
 
 今日の福音箇所(ヨハネ7章)において、エルサレムの人々は、自分たちはイエスのことなら何でも知っていると高ぶり、イエスはマリアと大工ヨセフの息子であるということ、またイエスの出身地がガリラヤ地方のナザレであることも知っていると言って、何でも知っていると思い込んでいます。
 
 これに対して、イエスは「あなたたちはわたしのことを知っており、どこの出身かも知っている」と返答しつつも、続けて「わたしは自分勝手に来たのではない。わたしをお遣わしになった方は真実であるが、あなたたちはその方を知らない。わたしはその方を知っている」と語っています。つまり、あなたたちは自分たちがわたしを知っていると言うが、実は1番大切なことを知っていないと答えているのです。
 
 果たして今日のわたしたちはどうでしょうか?もしかすると「わたしはイエスのことを知っている」と思いこんでいるだけなのかもしれません。では、1番大切なこととは一体何でしょうか?
 
 実は、イエスは同じヨハネ福音書の6章で既にこう語っています。「わたしが天から降ってきたのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。(それは)わたしに与えて下さった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。」イエスがこの世に来られたのは、わたしたちが一人残らず救われるためであるというのです。にもかかわらず、そのことを理解できなかったエルサレムの人々によって、イエスは十字架につけられてしまいます。しかし、十字架上で自分を殺そうとしている人々を「ゆるすこと」こそが、「わたしを遣わされた方の御心」だったのではないでしょうか?
 
 この四旬節中、何でも知っていると日々、高ぶる私たちを全面的に受け入れて、ゆるして下さる方、これが救い主の真の姿であることをもっと深く知ることができますように。
 
ぼすこ

2013/03/16  四旬節第4土曜日 エレミヤ 11/18-20 ヨハネ 7/40-53
 
 自分なりの結論に固執しているにもかかわらず、あたかも柔軟な思考の持ち主であるかのごとく振る舞い、自分は公平で中立な立場を保っていると主張する人、いますよね。私もそのうちのひとりです。とは言っても、大抵の場合、自分がある結論に固執しているなんて思ってもいない場合が多い。熟考し、十分に精査し、色々なアドバイスを参考にし…、しかし、それでも旨く行かないと言って悩んでいる。やがて、自分が実はつまらないことに固執していたのだと気づくのですが、気づいた時には、今まで悩んでいたのがまるで嘘のように視界が開けて見える。これ、ちょっとした救いの体験です。
 
 私たちは、イエスを救い主と認めている点で、祭司長やファリサイ人とは立場が違っていますが、それでも、知らず知らずのうちに「自分の信仰」という枠に囚われてしまう。自分の考えた枠に無限の神を閉じ込めようとして、旨く行かずに苦しみ喘ぐ。ホンのちょっとした気づきがあれば解放されるのに、分かっていてもまた繰り返してしまう。
 
 気づきは救いです。何でも、神の目で世界を眺める習慣が気づきを促すのだとか。いや、それも難しそうですが、ここはひとつ、つべこべ言わずにやってみましょうか。
 
eno

2013/03/18  四旬節第5月曜日 ダニエル補遺・スザンナ 1-9,15-17,19-30,33-62 ヨハネ 8/12-20
 
 「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇を歩かず、命の光を持つ。」
 
 かつて小さい時、毎朝ミサにあずかってから学校に通っていました。街灯もなく暗い中を懐中電灯を頼りに教会を目指していました。冬になるとさらに暗いのですが、月の明かりが道を照らし、やわらかな光の中を歩いたことを思い出します。暗いと不安になりますが、明るさはその心配を取り去ってくれます。毎日の生活においても、いろいろと心配なこと不安なことがありますが、その心を照らし導いていただくと、顔をあげて前に進むことができます。今日の福音にありますように、世の光であるイエスに従い、命の光をもってまわりにいる人々とともに神の愛に応えていく道を歩んでいくことができますように。
 
TH

2013/03/19  聖ヨセフ 祭 サムエル下 7/4-5a,12-14a,16 ローマ 4/13,16-18,22 マタイ 1/16-18,22 マタイ 1/16,18-21,24a
 
 今日の福音書を読むと一目瞭然ですが、ヨセフは一言も語りません。新約聖書でも一度も語りません。寡黙な男だったのでしょうか?そうかもしれません。「男は背中で語る」とも言いますが、そのような男だったのかもしれません。かくありたいものです。まだまだ遠いです。どうしても語ってしまいますので。
 
 多くを語らない男のかっこいい背中のイメージと共に、語らないヨセフのもう一つの側面は信仰です。見通しの悪い、いや見通しのないお告げに対して、黙々と生きていきます。神のみを頼りに、一つひとつ目の前にあることを生きていくヨセフの姿が目に浮かびます。
 
 私たちの住んでいる先進国は、保証の世界であると言えます。あらゆるものに保証があり、私たちも保証を求めます。保険もまたしかりです。そして安心します。当然といえば当然、それが現実だということでしょう。しかし、私たちは保証と保険を得る代わりに、神に依り頼むことを置いてきてしまっていることはないでしょうか。「もう別に神さまはいらない」、そんなふうに無意識のうちに感じてしまっていることはないでしょうか。
 
 本当の信仰を取り戻す一つの方法は、チャレンジだと思います。先の見えないチャレンジをどこかでし続けることは、信仰を保つのにもってこいです。それぞれの、そしてみんなの新しいチャレンジを探してみませんか?
 
John Goto

2013/03/20  四旬節第5水曜日 ダニエル 3/14-20, 24-25, 28 ヨハネ 8/51-59
 
 偏見やプライドは、真理をつかむ妨げになってしまう。ユダヤ人たちは真理を前にしながらも真理を拒否する。信仰者にとって真理を知るとはどういうことだろう。私たちも同じ過ちを犯してはいないだろうか。
 
 最近、ある宗教学者がこういう話をしてくれた。「宗教者や信仰者にとって必要だと思う理性とは、ある特殊な立場とか利害関心を越えて、普遍的に妥当性があるようなものにどのように開かれていくかということだと思います。もちろん自分が今持っている立場とか信念といったものは正しいと思っているから信じているはずですが、でもそれだけではないかもしれない、他に何かがあるかもしれない、という思いも持っているようなバランス感覚のようなものが必要な理性ではないと思います」。
 
 イエスを知ること、把握することは何かに凝り固まってしまうことではなく、普遍的に妥当性があるものに開かれていくこと、つまり自由になることだ。
  
YS

2013/03/21  四旬節第5木曜日 創世記 17/3-9 ヨハネ 8/51-59
 
 イエスと彼を取り囲む人々のすれ違いが、一昨日、昨日、今日の福音で目に付きます。
 
 真理に対する無理解、反発、拒絶、そして、かたくなな心。「神を知っている」と言いつつも、目の前におられる神に気付かない皮肉な状況。私たちは第3者的な立場からするとしょうがない人達だと思うかもしれませんが、今日の朗読、答唱、詠唱も含め、おのおののメッセージを振り返ると、全体を通して語られていることは、「あなた方もそうならないように!」ということではないでしょうか。
 
 「私の契約を守りなさい。」
 「全ての恵を心にとめよう。」
 「神に心を閉じてはならない。今日こそ神の言葉を聞こう。」
 
 私たちも同じ過ちを繰り返さないように、心のかたくなさを剥ぎ取り、神様の恵みと愛をもっともっと悟り、気付いていけるよう、精進して参りましょう。 
 
mickey sdb

2013/03/22  四旬節第5金曜日 エレミヤ 20/10-13 ヨハネ 10/31-42
 
 よく、「自分を信じなさい」とか、「自信を持って生きなさい」という言葉を聞きます。しかし、はたしてその自信はどこから来るのでしょうか? 下手をすると、その自信は、「自分が一番だ」とか、「他の人よりも自分は優れている」という傲慢な態度から来ていることがあります。しかしそんな自信はすぐに打ち砕かれてしまいます。自信を持って生きるとはいったいどういうことなんでしょうか。
 
 今日の福音でイエスは、ユダヤ人たちから石で打ち殺されそうな状況の中で、「父がわたしの内におられ、私が父の内にいる」と言って、毅然とした態度を示しています。私たちは、どんなに苦しい状況にあっても、うまくいかないとこがあっても、あきらめてしまうのではなく、いつも神様は自分と共にいるということを思い起こすことが大切です。この神様に信頼して歩んでいくとき、私たちのうちに本当の確固とした自信があふれてきます。
 
 神様は私たち一人一人を呼んで下さっています。しかし、すべてがスムーズに行くわけではありません。いろんな困難があります。しかし、そんな中にあっても神様は必ず共にいて、導いてくださっています。この神様に信頼して歩んでいきましょう。
 
Tsujiie

2013/03/23  四旬節第5土曜日 エゼキエル 37/21-28 ヨハネ 11/45-56
 
 エゼキエルの預言とカイアファの預言。全ての預言は、キリストによって成就されていきますが、そこで不思議に、また面白いと感じることは、神様は人間の過ちによって成されたものをも上手く利用されるということです。カイアファの「一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」という言葉は、イエスを死に追いやることの意味を人間的な考え、政治的な考えから、イスラエルの安全と平和を考慮(計算)して訴えているものであったのに、最終的に神様はイエスのその死が、イスラエルだけでなく全世界の救いとなることを意味するものと高められたわけで、私たちはここに神様の計らいの限りなさを見ることが出来ます。
 
 実際に私たちの犯した過ちをも、後にはすごい恵にかえて下さり、私たちの悲しみを思いもよらない形で喜びにかえて下さったことを私たちは幾度となく体験しているわけです。
 
 「私は傷をもっている。
     でも、その傷のところから、
        あなたの優しさがしみてくる」 (星野富弘)
 
mickey sdb

2013/03/25  受難の月曜日 イザヤ 42/1-7 ヨハネ 12/1-11
 
 マリアは純粋で非常に高価なナルドの香油をイエスの足に塗りました。ユダがそれを300デナリオンで売って、貧しい人に施せるのにと言ったように、300デナリオンの価値があったことになります。300デナリオンとは、300日分の労働賃金ということですから約1年分の給料であり、彼女はそれを一度に使ったのです。自分がその場にいたらどう反応するでしょうか。「あー、もったいない」と思ってしまうのでしょうか。だとすれば、わたしたちもユダと同じように、物質的な損得勘定でしか物事を見ることができなくなっているのです。そのとき、イエスが受難に向かう前にどれほどの苦しみをかかえていたかを理解していないからです。マリアは、直感的にイエスの苦しみを感じ、惜しむことなく、最高のもてなしをしました。少しのためらいもなく、すべてをイエスに捧げたのです。わたしたちも、この四旬節を過ごしながら、自分の命を惜しみなく与えた方に、マリアのようにすべてを捧げることができますように。
 
Noby

2013/03/26  受難の火曜日 イザヤ 49/1-6 ヨハネ 13/21-33,36-38
 
 「わたしは思った、わたしはいたずらに骨折り、うつろに、空しく、力を使い果たした、と。」(イザヤ49)
 
 自分の仕事が軌道に乗り、すべてが順調に進んでいる時には、自分の生活に充実感を覚え、神様から祝福されていると感じることはたやすいことです。しかし、困難に直面し、自分の無力さを実感したり、自分の至らなさを痛感する時にも、現実をしっかり見据え、それを神様からの祝福ととらえることができるでしょうか。あるいは逃げ出したくなり、神様に愚痴を並べるだけでしょうか。
 
 最後の晩餐の席でイエス様は今までのご自分の宣教活動を静かに振り返る瞬間があったかもしれません。民衆の無理解、指導者層の敵意を経験し、強がりを言うけれども意志の弱い弟子達を見て、自分の今までの宣教は何だったのだろう、と思ったとしても不思議ではありません。わたしだったらすべてを投げ出してしまうでしょう。しかし福音書を読むと、それでも落ち着いて自らの使命を果たしていこうとされるイエス様の姿がそこにあります。
 
 私たちが困難に直面したとき、このイエス様の態度を自分のものにしたいと思います。
 
鳥越 政晴

2013/03/27  受難の水曜日 イザヤ 50/4-9a マタイ 26/14-25
 
 15節、16節に「引き渡す」という言葉が繰り返されています。この「引き渡す」と訳されている言葉は「裏切る」と訳すこともできます。同じギリシア語です。12弟子たち、後の教会をつくる中核となる弟子たちの中から裏切りがうまれてくるのです。教会の外からではなく、仲間に属している者の中がイエスを売り渡すわけです。教会の最初からそうだとすれば、教会の歴史の中でそういう事が起こってもなにも不思議ではないわけです。
 
 イエズス様はこれから始まる受難の中で引き渡され続きです。いつも受動態、されるがまま、受身のままであります。自分が好きなように生きる自分がしたい生き方ではなく、されるがままの中でイエズス様の救済の歴史が完成していくのです。
 
 私たちも自分の思いではなく、主の思いが私の中に実現しますようにと、自分を引き渡す、聖なる三日間でありたいと思います。
 
                            M.M.Joseph

2013/03/28  聖木曜日・主の晩餐の夕べのミサ 出エジプト 12/1-8,11-14 1コリント 11/23-26 ヨハネ 13/1-15
 
 福音はヨハネから「弟子の足を洗う」です。ヨハネ福音書は学者によって相違は在りますが、1:1−1:51は第1部「プロローグ」、2:1−12:50は第2部「徴に依る活動」、13:1−20:29は第3部「最後の徴」、21:1−25は第4部「エピローグ」と言うように分けられ、朗読箇所は第3部「最後の徴」の冒頭でした。第3部「最後の徴」は、最後の徴としての十字架と復活を取り扱っています。
 
 ヨハネ福音書に於いて「徴:セーメイオン」と言う言葉は、特にイエスが行った奇跡に限定して用いられていますが、イエスの受難と十字架上の死と復活は最大最高の徴として、提示されています。ヨハネ福音書においては十字架と復活が等しく、父の所へ帰還する栄光の時として位置づけられており、また十字架は神の子イエスが挙げられる、高挙の時でも在り、十字架と復活を最後の徴で在るとヨハネは考えています。朗読箇所で、イエスはこの世を去って父の下に帰還する時が来た事を知ります。イエスの時とは、栄光の時、神が神である事が現される時で、既にイエスの徴によって指し示されていた事で、高挙、或いは、神である御父の元への帰還と言う意味で、十字架と復活が優れて栄光の時とされます。この時にあたって、イエスは弟子達の足を洗うと言う、奴隷の役目を引き受ける行為を示します。洗足の行為は、元来は互いに仕えあうべき事を、弟子達に促す為に、イエスが模範を示した単純な行為だったと思われますが、ヨハネ福音書記者は、イエスの十字架の姿を洗足の儀式に重ね合わせています。そう言った背景のもと、ヨハネは始めから、イエスが御自分に属する者達を愛された事を読者に印象付けます。その愛は、歴史的なイエスの弟子集団に限定されるものではなく、イエスを受け入れ、イエスの名を信じた者達全てを想定しています。
 
 「この上なく愛し抜かれた」の「この上なく」は「極限まで」と言う意味と、時間的に「最後まで」と言う二つの意味を持ち合わせています。ヨハネは質的にも時間的にも極限に達するイエスの愛を提示して、洗足の出来事を其処に位置づけています。十字架に依って特徴づけられるイエスの時とは、神の元への帰還の時で、それは自分の民に対する神の愛の啓示で在り、洗足はその先取りです。イエスが自分の時を知る事と、愛の模範を示した洗足が関連付けられているのはその為です。イエスは弟子達の足を順に洗います、ペトロは自分の番が来ると当然とも言える疑問を呈します。そこでイエスとペトロとの問答が生じますが、対話はヨハネ福音書の至る所で見られる、対話を通しての真理の開示であり、ヨハネ独特の手法です。イエスは、洗足の意味が「後で解る」と言いますが、此れは12節以下のイエスの説明と言うよりも、「真理をことごとく悟らせる」解釈者である聖霊の到来の時を示しています。洗足を洗礼と結びつける解釈も在りますが、此処では寧ろ、神の子の奴隷的な奉仕、愛の奉仕としての洗足が指し示す十字架が、神の啓示である事を、受け入れるか如何かを問うているので在り、受け入れた者は、既に全身が清く永遠の命に生きる者で在り、イエスが弟子達の足を洗うのはその徴です。
 
飯田徹

2013/03/29  聖金曜日・主の受難 イザヤ 52/13-53/12 ヘブライ 4/14-16; 5/7-9 ヨハネ 18/1-19/42
 
 主イエス・キリストが亡くなられたことを記念する今日の典礼の中で、ヨハネによる受難の物語が読み上げられます。福音記者のスポットは十字架と十字架を担っておられる主イエスに当てられていますが、恥ずかしい死刑のしるしであった十字架は、救いと栄光のしるしとなるのです。
 
 「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のそのままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(ヨハネ12,24)とおっしゃった主イエスは、十字架と復活でもって、忠実に、この言葉を実行に移します。十字架上の死の後に主イエスは復活の栄光を受けたように、わたしたちも、日々の十字架を担った後、永遠の命の栄光を与えられるのです。
 
 主イエスの十字架上の恥ずかしい死と復活の栄えある栄光を分けることが出来ず、今日、わたしたちの信仰生活の中心であるこの二つの事実を一緒に黙想し、復活祭を迎える心を整えましょう。
 
Achille Loro Piana
 

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