偏見やプライドは、真理をつかむ妨げになってしまう。ユダヤ人たちは真理を前にしながらも真理を拒否する。信仰者にとって真理を知るとはどういうことだろう。私たちも同じ過ちを犯してはいないだろうか。
最近、ある宗教学者がこういう話をしてくれた。「宗教者や信仰者にとって必要だと思う理性とは、ある特殊な立場とか利害関心を越えて、普遍的に妥当性があるようなものにどのように開かれていくかということだと思います。もちろん自分が今持っている立場とか信念といったものは正しいと思っているから信じているはずですが、でもそれだけではないかもしれない、他に何かがあるかもしれない、という思いも持っているようなバランス感覚のようなものが必要な理性ではないと思います」。
イエスを知ること、把握することは何かに凝り固まってしまうことではなく、普遍的に妥当性があるものに開かれていくこと、つまり自由になることだ。
YS
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