私たちは人を裁いてしまう。「あいつはどうしようもない人間だ」「間違っている」。
律法学者やファリサイ派の人たちもこの女の人を裁いている。「罪人だ」。
イエスをも裁こうとしていている。当時、人を死刑にする権限はローマ総督しか持っていなかった。イエスが石打ちを認めれば、ローマに訴えることができた。イエスがこの女を赦せば、イエスはモーセの律法を無視したことになる。
彼らは、律法の権威を持って、イエスとこの女を裁く側にいる。
それに対してイエスは、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と言う。
人は、もはや立法の前ではなく、神様の前に立たされる。
その時、一人一人、自分は何者なのかと問われることになる。もはや人を裁いたり、人と比較したりすることは何の役にもたたない。誰も自分に罪がないとは言えない。
後に残る二人も神様の前に立っている。この神様の憐れみによって、この女はゆるされている。
私たちも、神様の前に立っていないとき、人を裁いてしまう。人と自分を比較してしまう。しかし、神様の前に立っているならば、人をゆるすことができる。受け入れることができる。愛することができる。
Tsujiie
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