イエスは迫害は証しをする機会であるが、弁明の準備は不必要であると言っています。なぜならイエスが言葉と知恵を授けるからだとも言っています。
またイエスのために親しい人からも裏切られ、またあるものは殺され、また憎まれるとのことです。そうであっても忍耐によって命を勝ち取るように伝えられます。
上記の通り福音をなぞってみました。この福音で語られていることは、現代に至るまでキリスト教においてどんな時代にもどこかで起こってきたことだと思います。そしてわたしたちは多くの殉教者を聖人としていただいています。
現代日本に生きるわたしたちは大きな迫害はありません。しかし迫害はなくとも「キリスト者としてこの世に生きるということ」については大きな挑戦があることを感じます。キリストのように生きるのであれば世に甘んじていてはいけないのかもしれません。社会通念に従うだけでは足りないのかもしれません。そう考えると大きな葛藤が起こります。 これはわたしの勝手な解釈かもしれませんが、葛藤を持ちながらもイエスに思いを寄せ、何もできないわたし自身をイエスに任せて忍耐することが大切なのかもしれません。
答えは一つではないでしょうが、「キリスト者としてこの世に生きること」について、今日の福音と照らし合わせて黙想できればと思います。
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