この人は大工の息子ではないか
今日の福音で、私たちはまたもや、拒絶の場面に遭遇します。イエスは故郷の村に帰っておられます。昔からの友人や同郷の人々と一緒です。きっと、その日を待ちわびておられたことでしょう。主のすべてのすばらしいみ業、人々への神の愛、神の力を、皆と分かち合いたいと心の底から願っておられたでしょう。
しかし、人々の信仰のなさにイエスは驚きます。イエスは、故郷で何もおできになりませんでした。イエスに笑顔を向ける人はいませんでした! どれほどショックだったことでしょう。
もちろん、人々の拒絶はこの時だけではありません。この反応は、小さな村だけのものではありません。神が遣わされた方への、イスラエル全体の反応です。人々は、自分たちの狭い世界を超えた先を見ることができず、耳にしたことに憤慨します。彼らは狭量な心で見たことだけを信じます。すなわち、目の前にいるのは、才能に豊かに恵まれた青年ですが、あくまでも大工の息子にすぎないのです!
人々はその先を見ることができません。すなわち、神の子を。彼らは受け入れることができません。神が人となること、神が貧しく、素朴で謙遜な生活を送ることなど、根本的に除外されます。
ナザレの人々は、神がどのように行動され、考えられ、生活されるか、神ご自身よりも自分たちのほうが知っていると思ったようです。彼らを盲目にするのは、「私はわかっている」というメンタリティーです!
パウロとなる前のサウロはこのような姿勢でした。自分の正しさだけを信じ、自分と違う人々、考え方の違う人々を迫害せずにはいられませんでした。
私はどうでしょうか? 私たちはそのような姿勢で生きてはいないでしょうか?イエスよ、私自身から、私自身の正しさ、偏見から私を自由にしてください!
A.C
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