今日の福音は、イエスの裁きの言葉が連ねられています。福音書では神の愛、あわれみということが強調されています。病人をいやすイエス、罪びとをゆるし、あわれむイエス、徴税人や遊女にもこころをかけるイエスの姿。イエスという方はヨハネ福音書のいうように「神のみ言葉」として、神を完全にあらわす方です。父なる神はイエスのように愛のあるあわれみ深い父です。
しかし、その神は「裁く神」という面ももっています。福音書の中でイエスが自分や、自分が遣わした弟子たちに対してどのようにふるまうかによって、そのひとの永遠のあり方が決まってしまう。つまり、救いを得るかどうかが決まってしまうということも主張しています。今日の箇所やマタイ福音書の25章の「最後の審判」の箇所などは、そのようなことを述べている典型的なところといえるでしょう。
神が裁かれる方であるということを私たちは時々思い起こす必要があると思います。神のみ言葉であるイエスに対しての私たちのかかわり方に、私たちの救いがかかっているということを、しばしば意識したいと思います。
鈴木英史
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